伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

映画のかたち

キャシャーン

 前日であんなこと書いておいて、舌の根も乾かぬうちに、今日夜なんか書こうかしら、と。

 

というわけで

 こちらには「キネマトリクス」のフォーマットには入らなかったりする、だらだらした感じの文章を書きつけていこうと思っております。気合い入れて書いているのはウェブサイト「スプークテール」のほうの文章なので、まとまりのあるものを読みたいというかたは、私のウェブサイト「スプークテール(http://web.archive.org/web/20040819060053/http://www33.ocn.ne.jp/~projectitoh/index2.html)」のほうをどうぞ。

 

で、キャシャーンですが

 好きか嫌いか、という話だったら「好きだ」というだろうし、実際好きな作品ではあるのだけれど、いい映画か、といわれるとはっきり「よくない」と答えるだろうな、と思う。好きな理由はわかり過ぎるくらいにわかっているし、それがあまり「映画」という表現の可能性とは関係ない部分であることもわかっている。

 身も蓋もない言葉にすると、その箱庭的世界造型が好きだ、というなんとも情けない欲望でしか肯定できない。もちろん、それはぼくがこの映画をもう一回見に行ったりDVDを買ったりする(間違いなくそうする)分には充分な要素なのだけれど、多分、それ以外の要素でこの映画を肯定しろ、と言われたら、無理だろうと思う。
 それはつまり、この映画は映画としては愛せない、ということだ。

 

で、この映画のどこが好きか

 ということをまず書いてしまうと、それはなんといっても、デザインということになる。ぶっちゃけ、庄野晴彦の仕事だけ。

 庄野晴彦という名前は、「GADGET」で強烈に記憶に遺っていた。「メルチメディア」という言葉がまだ現役だった時代の、バブリーな表現形式としてのCD-ROM。いまではこんなメディアで表現しようとする人は誰もいない。けれど、「GADGET」それ自体はぼくに強烈な印象を残していた。当時、ぼくはおませな大学生で、出たばかりの「重力の虹」とかがんばって読んでいたせいもある(今にして思えば、実にのどかであったことよ。「競売ナンバー」は文句なく面白いんだけどなあ)。「スロースロップ」とかいう名前が出てきただけで、「ピンチョンネタかよ!すげえ!」とかアホみたいに(いや、アホなんだけど)興奮していたものだ。

 この映画はそんな、庄野的デザインが「映画として」パッケージングされた、そんな快楽を与えてくれた。大正デカダンスとロシア・アヴァンギャルドの出会い、というのはやっぱり面白い。ここ数年、ソ連ブームだったという個人的なツボはあるのだけれど、やはりこうやってくどいほどの指向性を持ったデザインが全編にわたってなされている映像というのは、観ていて気持ちのいいものではある。

 とくに、異世界を創造するにあたって「文字」に対してコンシャスなのが嬉しい点だった。前からキリル文字というのはインパクトのある文字だと思っていたのだけれど、こうやって(あたかも、現在の日本で英語が出てくるような位置に)キリル文字が出てくると、すっごく異様で気持ちがいい。漢字の、フォントの選び方も適確だと思う。
 SFだろうと、ファンタジーだろうと、文字に対するビジョンを持っていないデザインは、根本的に駄目だと思う。その意味で、この映画のプロダクションデザインは大成功、ぼくにとっては万歳三唱な出来だった。

 あと、日本というSFに向いていない場所で異世界を構築することができているのも凄いなあ、と思う。もちろん、この映画の舞台は日本ではなく「大亜細亜連邦共和国」なんだけど、ぼくが言いたいのはそういうことじゃなくて、「日本人の顔」という根本的な問題を解決している、ということだ。

 日本人の顔はSFに向いていない。そこのところをわかっている映画制作者というのはあまりいない。こんなことを書くといろんな人から怒られそうなのだけれど、やっぱりそれは事実なのだ。SFと言わず、スペースシャトルに乗る日本人のEESSの似合わなさはどうしようもない。宇宙服というのは白人が着るものなのだ。なぜアニメではSFが可能かと言うと、キャラがアニメ絵であることによって、日本人という臭いが画面から脱臭されているからだ。

 そのことを意識せずにSFを作るかぎり、どんなものをつくったところで北京原人とどっこいどっこいになってしまう。映画の底が抜けてしまうのだ。そのことに自覚的な人間は、そうした「日本人の顔」によるSFが成立可能な舞台をきっちり用意する。平成ガメラの賢明さというのはまさにそこにあるのだし、押井守が「アヴァロン」をポーランドで撮った理由もまさにそこにある。

 現代日本を舞台にしながらも、怪獣映画というフォーマット(と自衛隊という現実に武器を持った組織のリアリティ)を援用することで「日本人の顔」によるSFを成立させたガメラ、ポーランドの街でポーランドの役者を使うことで、はなっからそうした問題を回避した「アヴァロン」。
この「CASSHERN」は「日本人の顔による異世界の構築」に新たな方法を提示してみせた。それは「異世界としてとらえうる日本の過去の意匠をデフォルメする」ことで異世界を構築する、という方法だ。そう、実相寺の「帝都物語」の明治大正が「異空間」だったように。「人狼」の昭和が異世界だったように。その「過去」を未来に代入して、異世界をつくりあげるという方法だ。

 

それこそが問題だったのです

 ところが、ここまで書いてきたことは、この映画が映画としてどうか、という評価にはまったく繋がらない。

 映画としてのキャシャーン、それは、破綻することも空回りすることも許されなかった、単に「下手な映画」という問題に落ち着いてしまうのだ、なんともショボくもなさけないことに。「リローデッド」のように破綻することも、「イノセンス」のように「映画」にとって忌わしい「映画の人形」になることもできなかった、いびつさが切実さに結晶することを許されなかった「単なる下手」な映画として、この「キャシャーン」はある。

それはそれでいろいろな問題をはらんでいるのだけれど、眠いのでその話はまた明日(明日に続く)。

 

2004年4月20日 伊藤計劃
引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200404