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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

レーガン、パトレイバー、攻殻、80年代

本日の収穫

・アームズマガジン

で銃について押井インタビューが6ページと意外なボリューム。押井特集で藤木さんもプロテクトギアのモデルで登場(イノセンスのプロモでバトーの中に入っていたとゆーのは本当でせうか)。
 まあ、「外部にある身体としての銃」という最近の押井言説のラインで展開するので、目新しい展開はとくにないですが。

 しかし、2nd GIGで「全員下痢になる話」やるとかぬかしてて笑えます。「特車二課壊滅す!」じゃねーか。あと、最後のほうは内戦で空爆もやるとか。

 

・攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG 4巻

 ゴーダ。

 ナイス。もうゴーダ萌えですよ。かわいい。タチコマかわいいとかぬかしてると時代においてかれますよ。西田健ボイスが炸裂。キャラ立ちまくってるなあ。ひさしぶりに気持ちのいいヒールを見ているですよ。

 神山色、というか前SACの目新しさというのは、「ようやく、80年代を題材にする作家がアニメに登場してきた」ということなのだろう。「オトナ帝国」の先に出現する風景、というかなんというか。ロッキードやグリコ・森永を題材にする世代。自分の原風景を表出したとき、オリンピックでも学生運動でもベトナムでも万博でもない80年代の記憶がロードされる世代の出現。

 SAC。この作品のインフラの意図的なばらつき、不統一感というのは各所で指摘されている。電脳通信があるのに建築は未来ではなく、思考戦車が田んぼのある郊外を走る風景。この作品のテクノロジーは意図的にいびつな設定にされている。というか、電脳技術やサイボーグ技術以外は現在と同じ風景や生活がそこには設定されているのだ。

 思うに、SACというのは電脳版「パトレイバー」なんだろう。「いま、この世界にアニメで見るような巨大ロボットがいたら?」というエクストラポレーションが「パトレイバー」だった。それは未来として描かれていたものの、内実はあからさまに「いま、ここ(あるいはそれより2~3年前)」の風景であり、その風景の中に「巨大ロボットが日常化した」という異物を挿入した世界、それが「パトレイバー」だった。

 SACはそれなりにSFである士郎正宗原作とも、あるいは「未来の日本」という設定を破棄して「どこか中華系の異世界」を設定した押井映画とも異なる。SACは確かに2030年を設定として掲げているが、そのスタイルはあからさまに

「いま、この風景にサイバーパンクのような電脳技術があったら?」

という「パトレイバー」的スタンスを採用している。「パトレイバー」のロボットというテクノロジーが電脳技術に置き換えられた、そういうスタンスだ。

 そしてサイバーパンクもまた、80年代の風景だった。

 グリコ・森永事件(SACは『レディ・ジョーカー』を参照している)。ロッキード。そしてサイバーパンク。これらが80年代という言葉でつながるとき、そこにぼくはいままでのフィクションとは異なる息苦しさが立ちあらわれてきたのを感じる。それは、ぼくらが子供時代を生きてきた風景を、突き付けられる時代がやってきたのだ、ということなのだろう。今年、レーガンが死んだ。「強いアメリカ」を提唱したレーガン。弱者を切り捨ててきたレーガン。イラン・コントラ事件のレーガン。サプライサイド屋の妄言にはまったレーガン。ソ連を「悪の帝国」呼ばわりしたレーガン。

 レーガンが死んで、神山健治という作家が自分の原風景としての80年代を描きはじめた。2ndは80年代を直接には描かない(とか思ったら、新宿の公園で日雇いを集めて原発の掃除させた話をネタに使ってましたな)。しかし、その物語は否応なく80年代的な感性が表出するものになるだろうな、とぼくは思う。

 てか、プルトニウム輸送話がえれえニューヨーク1997臭いんで笑ってしまった。これも80年代的風景の表出なのだろうか(んなわけない)。音楽も心無しか安いシンセ臭い上にベンベンしてないか?

2004年6月26日 伊藤計劃
引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200406