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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

国家、サイバーパンク、攻殻

攻殻2nd

 かつて、サイバーパンク華やかなりし頃、そこに「国家」なるものはえらく希薄だった。それが80年代の気分、というやつだったのだろう。ハイテクノロジーを生み出す能力を持った多国籍企業が階層の上部にあり、ネットワークが国家の境界を消失させている世界。それが80年代の描く未来資本主義の行き着く先であるはずだった。

 シロマサの「原作」は「国家や民族が消えて無くなるほど」には情報化されていない、と書いてある。しかし、シロマサの「原作」とて実は「国家」が描かれているわけではない、とぼくは思うのだ。それは諜報戦を描くための「所属」をしめす記号にすぎず、どの国がどのような「気分」で動いているか、どのような「イデオロギー」を持っているか、というようなことは描かれていない。シロマサの原作に登場し公安九課と関わる国家は、なんというか、ある種の「臭み」が抜けた、ファンタジーのような利益追求機械としての枠組みでしかない。プロフェッショナルの、プロフェッショナルによる、プロフェッショナルのための世界。その意味で、シロマサの原作もまた確実に80年代サイバーパンクの気分が漂っている。

 けれど、いま世界を見回してみて、国家、という言葉がどんどん重く、生臭くなっているのはどういうことだろう。情報化によって国家観は希薄になるんじゃなかったのか。車内吊りを見れば、どっかの雑誌は「ぷちナショナリズムからガチナショナリズムへ」という見出しが載っている。巨大掲示板を見れば、外国人に対する差別的な書き込みが踊っている。ウヨだサヨだという単純な二分法が幅をきかせ、「左翼」という言葉が侮蔑語としての意味を獲得しつつある。

 サイバーパンクの描いた未来には、この種のナショナリティに基づく「生臭さ」はなかった。そうしたものは綺麗に脱臭されていた。そこには右翼も左翼もなかった。いうなれば、資本テクノロジー、それだけが世界を決定していた。あたりまえだ、国家というものが希薄な世界観の中で、右翼だの左翼だの国家や民族を軸にした価値観はそもそも成立しようがない。

 というわけで、この「生臭い」話がどこへ行くのかというと、攻殻SACシリーズは「サイバーパンク」ではない、という話になる。

 押井守自身は徹底してリアリズムのひとなので、資本主義の極限であるディストピアを描きつつ「超国家的」という意味においては確実にユートピアの変奏曲であったかもしれない80年代の産物であるところのサイバーパンクを「信じては」いない。なんたって押井は軍事オタなわけだし、国家の解体なんていうヨタをやるような人ではない。んが、作品としての映画「攻殻」は、ある種の汎アジア的オリエンタリズム、それこそサイバーパンク武器だったもの、を援用することによって、結果的に押井自身がまったく信じていないはずのサイバーパンク未来フィルムに実現することになってしまった。サイバーパンクであることを回避したかったのなら、そもそもエキゾチズムを援用すべきではなかったのだ。映画「攻殻」もまた国家の臭いが脱臭されている。公安という、国家機関の権化が主人公の映画であるにもかかわらず。

 原作では明らかに日本だった舞台。しかし、映画ではそれは日本ではない。アジアの某都市、と意図的にぼかされている。2029年とか2032年とかパッケージや書籍に踊っているから特定の時代の話だと思っている人もいるかもしれないが、実は明確に時代を告げる場面は劇中に登場しない。押井自身は世間的なイメージとはうらはらにサイバーパンンクの人ではない。が、作品として結実した映画攻殻はなんと嘘のようにサイバーパンクのステロにきれいに収まってしまうことか。

 しかし、神山健治の描く攻殻は国家というものの「生臭さ」の一部を、確実に映し出している。これは戦争というまさに国家的状況の極限を描きつつ、また同時にその国家という枠組みの「生臭さ(可否や善悪、ではない)」が脱臭されていたガンダムを含め、アニメではあまりなかった展開だ。

 個別の11人、という題材や、そのモチーフとして選ばれた5.15事件(のナショナリティ)。攻殻SACの2は「サイバーパンクにあるまじき」コンシャスさで「国家」というものの「気分」を描いている。「セカイ系」という言葉でくくられる印象の薄い(だが確実に需要のある)アニメ群が、「個人の気分」に終止し、そこで世界が(まさにセカイが)完結するのと対をなすように。

 ネットによって醸成されるナショナリティ。ネットだからこそ感染しやすい「気分」。主に情報取得のコスト(時間、費用)からくる現象だと思うのだけれども、ネットというのは情報の個人の中での吟味というものを甘くするのではないだろうか。その結果、左にせよ右にせよ膨大な数の人間が、情報の精査を経ぬまま共振しやすい、極端な方向に振れやすい空間が現出するのではないだろうか。テレビは全部サヨクで、NGOは全部ボンクラで、半島関連は陰謀史観で、と今は右に流れつつあるだけで、これが何かのきっかけで容易に左へ流れていくこともあり得るだろう。常識的に考えれば、そんな極端な現実はありっこないのだけど、ネットはそうした世界観の構築を容易にする。
 そこに真実があるとしても、その「割合」がまったく考慮されない空間。情報の増加によって、世界観が単純化されるという不思議な逆転。そして、それが新しい時代情報処理の在り方だとしたら、サイバーパンク情報の処理に関して、新しい見方は提示できていなかったことになりはしないだろうか。

情報化によって国家という枠組みが解体もしくは弱体化されるはずだった」サイバーパンクが、現実のネットワークのナショナリティに接して、その未来を修正せざるを得なくなった形として、攻殻の2ndはある。

 喪なわれたサイバーパンクの風景、それが攻殻SACの2ndが映し出しているものなのかもしれない。

2004年8月26日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200408