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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

アイ・ラブ・オーリー・ザ・ホロウ

 キングダム・オブ・ヘブン

 

幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者。天の御國はその人のものなり。
マタイ 5 : 7-10


 オーランド・ブルームは若すぎるかどうか、それはまったく問題ではなかった。オーランド・ブルームが軽すぎるかどうか、それもまたまったく問題ではなかった。かれに映画を支える力があるかどうか、という抽象的な問題も、じつはこの映画に在ってはまったく問題ではなかった。

 ぶっちゃけ、リドリー・スコットの人選はほぼ完璧な選択だった。

 この映画の主人公は、子を喪い、子を失ったことに絶望した妻を喪い、自死を選んだ妻を受け入れぬ天国の掟によって信仰を喪い、からっぽの状態から旅立ちを迎える。そこに主体的決意はなく、鍛冶屋として暮らす村を離れたのも一時の激情によって堕落した司祭を殺めたから逃げ出しただけだ。捕まえにきた領主の騎兵には逮捕してくれと言い、乗った船は難破し抗うことはかなわない。ただひたすら、流され、流され、流され続けてかれはイベリンの領主になる。

 彼はイェルサレム国王ボードワンIVの妹・シビラと関係を持つが、この映画ではそれが不思議と亡き妻、その自死を侮辱され人を殺めたほどの想いを寄せた妻への裏切り、には感じられない。彼はフランスの寒村の鍛冶屋だったはずだが、剣の腕については指導されるからまあいいとして、灌漑をし、測量をし、戦略を立て、士気を鼓舞し、交渉を行う。おそらく彼の教育についてカットされたシーンが大量にあるはずだし、そういう意味ではこの映画は彼がこのような鍛冶屋から多彩な人物に変化したことについて、説明ナッシングでえらく納得がいかないはずだ。

 が、ぼくはそんな主人公を、バリアン・オブ・イベリンを、普通に受け入れてしまった。

 それもこれも、バリアン・オブ・イベリンの、というよりこの映画におけるオーランド・ルームの見事なまでのキャラクターのなさ、透明人間っぷりのおかげである。
 彼はこの映画で鍛冶屋から領主になるが、その劇的な生活の変化を猛烈な当然顔で受け入れる。というよりいつ受け入れたのかもわからぬままに、いつのまにかそこにいて、そうなっている。彼の瞳だけは「この人は絶対に悪いことはしない」程度のことを観客に伝えるが、バリアン・オブ・イベリンについて我々が理解することを許されるのはその点だけだ。

 正直、彼が何を考えているのか、我々にはさっぱりわからないのである。かれはその思考を顔に出すことを極限まで抑制しているし、しかもあまり喋らないからだ。「こいつ、こういうスキル持ってるからそこんとこ夜露死苦」というナメ腐った事後承諾の数々を、しかしオーランドのニュートラルというよりはゼロに近い存在感が、「あ、そうなのね」と観客に納得させる。思えば、彼は確かに鍛冶屋だったが、しかしその鍛冶屋ですら本当に自分の「キャラクター」だったのか。オーランドはこの映画であらゆる階層に出現しながら、しかしあらゆる階層に不在である。彼は暴力的なまでの不在っぷり、キャラクターの纏わなさっぷりで、鍛冶屋になり、騎士になり、領主になり、王女と恋に落ち、都を守る。

 あらゆる局面に顔を出すことのできる所持スキルの多様さと、あらゆる階級に当然顔でなりすます順応性と、妻を失ったあとに別の女性と容易く寝てしまうことを不義と感じさせぬ性格の不透明さ。この「なんでもアリ」を可能にするキャラクターの薄さを完璧に機能させる俳優として、オーランド・ブルームは完璧だった。そして政治から戦闘の場までさまざまなレイヤーを描くことを最優先の目的としたこの映画にとって、それはこの上なく幸福な選択であった。さまざまな場所を描くために、さまざまな場所にいてまったくうるさくない主人公を創出したのである。

 あらゆる場所に立ち会うことを許された主人公が、その様々な場所で出会うのはしかし強烈なキャラクターばかりである。父親のゴッドフリーは無論、「宗教など言葉に過ぎん」という宗教者「ホスピタラー」、癩病に冒され爛れた顔を仮面で覆う瀕死の賢王ボードワンIV世、その瀕死ではあるが敵でもある賢王に「私の医者を差し向けよう」と申し出るイスラムの英雄サラディン。いずれもが魅力的なキャラクターばかりであり、映画は彼等のその時々の行動によって輝きを帯びるが、我々観客がそれら多彩なキャラクターに出会うことを許されるのは、あらゆる場所に立ち会うことを許された透明人間、バリアン・オブ・イベリンのおかげである。

 おそらくリドリー・スコットはある種の確信を持って、オーランドの「人格の薄い」資質を全面展開させたのではないだろうか。結果、彼はあるミステリアスな影を保持しつつけながら、その不明さゆえに大局に顔を出してそれを咎められない。なぜ鍛冶屋風情が、と我々観客がこの映画に接して口にすることを、オーランドの薄いキャラがやわらかに封じる。じゃあ、そもそもこの鍛冶屋は一体何者なのだ?と。

 この、あらゆる者になり、しかし同時にあらゆる者になり得ず、そしてそれを当然顔でいつのまにか受け入れている俳優を得たことで、この映画は思う存分世界にその戦力を集中することができたのだ。

 こっからはいつもの空間恐怖症的リドスコの画面設計が全面展開する。異常な数の小物、旗、装飾によって画面を埋め尽くし、とにかく異世界の空間の容積をブツとして感じさせる。納得できる物語よりも納得できるアクションよりも、「納得できる空間」、分厚い空間を見るとエクスタシーを覚える人間なので、正直リドスコの映画を見る一番の快楽はそこにあるのだけど、この映画は予算が大きいせいか、ディテールがいつもの10倍増量でやってくるので、できればひたすら画面を見ていたかった。これもひとえに、空間を脇にやって存在感を発揮したりしない、オーリーという俳優のおかげである。他のキャラもまた、仮面をかぶせられたり、たっぷりとした布がひらひらする衣装を着せられたりして、人間と言うよりはディテールの一部、ブツとしての存在に還元されるよう配慮されている。あの衣装いいなあとか、あの椅子いいなあとか、あの建物いいなあとか、要するにそんな映画なんだが、そんな映画であることを許されたのも、ひとえにオーリーが主人公をつとめたおかげである。

 ディテールといえば、この映画はほとんど投石器映画である。燃え盛った火の玉が弾着時に爆発するので、もはや投石器ではない感じだが、とにかくクライマックスではひたすら投石器と攻城櫓を見せられる。リドスコは投石器大好きであり、今回騎馬戦とか白兵戦はかなりあっさりめ、というか露骨にやる気がなさそうだ。攻城戦は投石器全面展開である。何せ、投石器の石が引っぱりだされる下部から外を臨む、などというけったいなカメラポジションが登場するのである。櫓の基部に人がたくさん乗っているのも初めて見た。思えば「指輪」ではただ人がぶつかりあって主人公達がアクション映画の如くアクロバットを繰り広げているだけで、こういう戦争のディテール描写は皆無だった(だから「指輪」の戦争シーンってあんまおもろくないのよね)。しかし、この映画はドンパチそのものを単純に映すよりも、画面を埋め尽くす旗と旗と旗とか、下品に輝くキリストの聖十字架とか、そういうもののを見ていたい人間にとっては最高の一本だ。

 帰りにこの映画の公式ガイドなる本を本屋で立ち読んだが、リドスコは序文で「自分でも認めるが、私は重いものを遠くに投げ飛ばす巨大な装置にも愛着が強い。」などとのたまわっている。職権乱用である。実物大のを作って実際に投石したそうだが、こうなるともうリドスコ好きなもの大会である。

 いろいろ文句はあるだろう(俺はないけど)。あまりにのっぺりしている映画だし、あまりに説明不足な映画だ。それでも、癩病の若き賢王が、サラディンをはじめて打ち破った16歳の夏(すごい青春だ)を語る今際のときに「あなたは美しかった」と言うエヴァ・グリーンにぼくは不覚にも泣いてしまったし、サラディンはひたすらかっこ良かったし(黒いターガっていいよなあ)、なにげに(主人公以外の)キャラ立ちが激しいので、人が言うほどのっぺりもしていないし、説明も不足していないようにも思えるんだが。

 そして、個人的にはこういう話に弱いというのはある。「天の王国」という題名がいい。そんな場所はないが、そんな状態はある。つかのま、人類の歴史にあらわれて泡のように消えてゆくそんな時間。愚か者たちが支配する歴史のはざまに一瞬だけ出現する、賢明さにあふれた、しかしはかなすぎる一瞬。しかし人々はそれを求めながらも得られていない。そんな「はかない時間」の失われていく物語。

 この映画、俺は好きだ。なので、出来不出来はもうわからん。

2005年5月14日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200505