伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

たまにはカタい話でも

むかしむかし、夢見られたせかいのはなし

ユリイカ 2005年10月号 特集 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

を買い、仕事場から夕食に出たときラーメン屋さんで読んでしまった。面白かったわけではない。制作サイド自身の発言は(予想通り)おおむね面白かったけれど。それ以外はどうかというと、正直買わんでいいと思う。なんてったって1300円だ。

 東浩紀さんの発言に感じる、この我が身のような、我が身がかつて経験したような懐かしさと恥ずかしさはなんだろう。それは多分、この人が80年代的な意匠を無自覚に(いや、それはさすがに侮りすぎかしらん)纏っていることからくる恥ずかしさなんじゃないかしら。いや、80年代的な意匠を「カッコ悪く」纏っていることからくる、と言い換えたほうがいいのかもしれない。なにしろ、語られている対象である攻殻SACは80年代的なものを有効に活用し得ているからで、東さんの80年代臭とは対照的だから。

「(『戦争』を題材にした『2nd GIG』よりも)一見虚構的世界を扱っているかのように見える『S.A.C』のほうが、実は、現代社会のリアリティを捕まえていると思ったんです」

 ぼくも、「2nd」より「S.A.C」のほうが好きだし面白かったのだけれど、どこまでも「リアリティ」を参照しつつ「S.A.C」を称揚する態度のうちに、東さんの一貫しない言説を見い出すのは、そう難しくはない。なんだ、この人だってけっきょく、自分が(「イノセンス」の押井にはすでにない、と)言っているような「ヴァーチャルなものをリアルに感覚するだけの体力」を失っている一人じゃんか。つまらん。

 この人が「パト2」の延長線上にある、ありえたかもしれない押井の幻影として「S.A.C」を捉えたがっている気持ちは、よくわかる。ぼくはそうした可能性のところとは別のところで押井に可能性を見い出しているけれど、東さんは、どこまでもアクチュアリティ(このアクチュアリティがフィクションである、というところも含めての)と濃密な関係を取結ぶ押井に拘泥しているのだ。

 たとえば東さんは、9.11後のせかいが「ひりひり」し、非常事態が全面化し、日常に戦闘地域が入り込み、とLICの普遍化した、サリン以降、9.11以降の「戦争を描くことはそのまま日常を描くこと」となる世界を語る(うええ、紋きり)。の、わりにこの人、例の外国人を誤射したロンドンの警官達について、「仮にあれが自爆テロの犯人だったとしても、撃った警官達にそういう高揚感はあったかというと、ない思う。」と言う。9.11で犠牲になった消防士達についても「国家と一体化するような高揚感はなかったでしょう、と。

 ぼくは別にナショナリストではない(むしろサヨクに近いだろう)けれど、そりゃないんじゃないの、と思う。ここで神山さんは「なかったと思いますか?」と疑問符をつけているけれど、そりゃそうだ。東さん言うに、戦争というやつは「日常の空間を離れて戦争の世界に入っていくことを」「訓練や様々な儀式を通じて」「教育/洗脳していくプロセスがあるから、人々は高揚感を得られる」んだと。それはまあ、いいでしょう。
 じゃあ、あなたがいままで日常と戦争を区別する意味はない、と言った世界はなんだろうか。非常事態が全面化した世界はなんだろうか。儀式はとっくに終わっている。訓練こそないけれど、ぼくらはすでに非常事態としての世界を「恐怖」として教育し洗脳されている。世界は戦争でいっぱいだ。ビルに飛行機がつっこむ世界に、町中で化学兵器がばらまかれる世界に、ぼくらは生きている。そんな世界で銃をぶっぱなすことが「日常の空間を離れて戦争の世界に入っていくこと」じゃないと?

 つまり、この人、思いっきり矛盾しているのだ。片方で世界はすでに「非常事態化している」と言っときながら、もう一方で「さっきまで日常の空間であった場所でいきなり銃をぶっ放すわけで、高揚感が生じる余地はない」とか言う。日常と戦争の溶解した世界を語っておきながら。自分の日常が警察官や消防士の日常だと思い込むおおざっぱさ、という問題にも無自覚だ(その種の職業を選びとった人々が「儀式」や「訓練」を経ていない、とでも?我々と同じ「日常」を生きているとでも?)。というわけでこのひと、いろんなレベルに、ずいぶん柔軟性のあるスタンダードを持ち込んで、ある種の観念を必死に定着させたがっているように見える。むしろ東さん自身が、無意識のうちに日常と戦争の区別を自明のものとしているのだろう。そうじゃなきゃ、あんな素人目にもどうかと思う矛盾は言わないでせう。自分に染み付いたものと観念の同期がとれていない感じ(あ、ひょっとしてそれって「イデオロギー」なんじゃないかしら)。もちろんそれは、ルイセンコが壊滅させたソ連の農地のような、ポストモダンの荒野に留まる者、80年代の亡霊のすすり泣きであり、気持ちはとってもわかる気がする。けれど、かつてサイバーパンクが予言した国境の消滅が今だ訪れず、その方向に向かってもいないどころかかえって強化される始末の現在、かつてのサイバーパンクの夢想した世界と同じ哀愁を、東さんの言説は帯びてしまう。

 さて、その上で押井について東さんは「『身体性の回復』に飛びついて」しまった、という。押井さんをもってしても「ヴァーチャルな世界に耐え続けるのはけっこう難しくて」と。「押井さんの場合、銃で撃つというときも、背後に国家を背負って撃ちたいんだと思うんです。」「もう彼は物と物の戦争しか考えてないんだなと思った。現実の戦車があり、兵士がいて、空母があって、というような戦争のイメージが決定的に強くなっていて、『パト2』のようなヴァーチャル・ウォーのリアルさは視野から消えたんだな、と少し残念でした。」

 たぶん、(ヴァーチャルなものをリアルと感じる世界を語る反面)自明な日常を前提とする東さんにとって、ヴァーチャルとリアルの区別そのものに意味を感じない、現在の押井の態度は理解し難いのだろう。東さんは「パト2」と「攻殻」の間に押井の変節を見い出しているようだけど、ぼくは違う。

 それはたぶん、「イノセンス」と「アヴァロン」の間に横たわっている。「攻殻」と異なって、「イノセンス」でもはやバトーは国家を背負っていない。敵も「人形使い」や「公安6課」のような国家から派生した存在ではなく、単なる営利目的の会社に過ぎず、「首謀者」の社長も社員も出てこない。なんだかんだ言って、攻殻は「パト2」の(「パト2」で確立したレイアウトシステムの流用であるという意味でも)延長線上にある映画で、結局は国家泰平の話だった(その焦点が草薙素子の内面にあるとしても)。しかし、「イノセンス」は究極的には、単なる人身売買の話に過ぎない。しかも、途中で公安事件ではない、と判明してなお個人的な欲望で(素子ォ~)捜査をすすめる個人の話だ。

 押井はたぶん、アクチュアリティを描く気が、とことんないのだ。ここで言うアクチュアリティとは、つまり「S.A.C」や「2nd」がそうであるようなアクチュアリティで、悪い言い方をすれば現実のパロディに過ぎない、ということもできる。しかし、押井は「イノセンス」に見られるように、ある種老人の悟りの特殊版みたいな世界に突入してしまっている。それは、「ヴァーチャル・ウォーのリアルさ」「ヴァーチャルなものをリアルに感覚するだけの体力」という東の言い方が(本人が無意識に)前提としているヴァーチャルとリアルの二元論ではない。たぶん、東がヴァーチャルだのリアルだの言うときは、それらが「混合した」世界、もしくはタマネギのようにレイヤリングされた世界を想定しているのだろう。しかし、「イノセンス」の押井が「アヴァロン」以前と異なるのは、「ビューティフル・ドリーマー」から続いてきた「レイヤリングされた世界」を放棄したことにある。

 いくら「現実の曖昧さ」といったところで、そのペルソナがその時点で所属している世界はまぎれもなく「在り」、それは単に「根拠を失っている」だけであって、「モニターの向こう/こちら」「現実だと思い込んでいた世界を含む夢(のいくつかの段階)」「ゲーム/現実」というように、レイヤー分けされているに過ぎなかった。しかし、「イノセンス」は違う。そこでは、誰がいつからハッキングされていたかもわからず(ハラウェイのシーンはトグサの夢か?キムの事を吐く情報屋の場面はハッキング空間か?誰にもわからない)、レイヤリングはすでに放棄されている。不確定な状態は自明であり、バトーは逆説的に不確定だからこそ内的な「根拠」でのみ行動する。いままでの押井作品がタマネギだったとするなら、「イノセンス」はゼリーだ。夢とか現実とかいう区別に意味をなさない、レイヤーのない世界。それはつまり、一元論だ。イノセンスは一元論で描かれた映画なのだ。

 身障者の立場から、ぼくは「イノセンス」の一元論は嘘っぱちだと思うが、しかし東さんの押井が「身体性の回復」にとびついた、という話も同じくらいどうかと思う。だってあの映画、身体なんて存在しないんだもの。登場人物はみんな人形で、主人公は「被害者である」はずの少女に向かって魂で人形を汚しやがってと逆ギレするし、「外部として在る身体」であり映画で一番萌え萌えしいはずのバセットハウンドはクローンだ。なんのことはない、バーチャルでいいじゃん、てこと。リアルを求める指向をこのおっさんは脱してしまったのだ。押井のフィルモグラフィーは「現実/夢」の2分にはじまり、「レイヤリングされたさまざまな階層」としての世界を通って、いまのところそれらの「分割」すら無効になったゼリーのような一言論的世界、もはや夢か現実かヴァーチャルかリアルかを問うことが無意味(というより無意味であることが前提)な世界に到達した。フィルモグラフィーとしては、じつに分かりやすく進行していると言えなくもない。東さんは退化と見た「イノセンス」は、実は東さんが好きな「パト2」の、当然の深化でしかないし、そこには退化も断絶もない。「パト2」から見えていたはずの道に気が付かなかった、というのは東さんの見識不足でしかないだろう。押井は単純に、東さんの一見アクチュアルに見えて実は「X元論」でしかない「レイヤリングされた世界」の先へ行ってしまっているだけだ(もちろん、それを評価するかどうかは、また別の話だし、実はぼく自身は、この病気を経てしまったことでもあるし、そこまでついていく気はさらさらない)。東さんの言論は押井さんに比べて、決定的な古さ、80年代的な古さを抱えてしまっている。

 続く、かも。 

2005年10月7日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200510