伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

腐ってもマンシーナ

喫煙、アディクト、オタク  

 いまや記号としてのジョン・ウェインがいかなる存在としてあり続けているかは、誰の目にも明らかだろう。素手をだらりとたらしたままスクリーンに登場することのないこの接触の魔は、たえず掌で何かに触っていなければ居心地が悪く、発射したあとはもとのガン・ベルトへとおさめなくてはならない拳銃よりはコーヒー・カップを握っていることを好み、しかもそれだけでは落ちつけず、手に触れるものがあれば、それを両手にとって胸にかかえこまずにはいられないのだ。

蓮實重彦「映画 誘惑のエクリチュール」


 禁煙ファシズムだとかそれをあえて押し付けるだとかいろいろ話題になっていたらしいのだけれども、そのころ私は肺の腫瘍で入院していたりして、すっかり話題に乗り遅れてしまっていた。とはいっても、私の肺のそやつは脚の腫瘍が転位したもので、いかなる種類の喫煙ともまったく関係がなく、肺をやると辛いと言う程度の事はできるが、だから煙草をやめましょうという話にはどうがんばってもリンクできない。入院してたのも(肺をやられたにもかかわらず、それは脚のやつの転位なので)成形外科なので、肺癌の患者さんはまわりにいなかった。

 というわけで、この話は喫煙と肺癌の話ではない。

 まあ、喘息持ちではあるし、そんな私の持病(5歳から中学までは週1で中~大発作を起こしていた)を前に親父は煙草をブカブカ吸いまくっていたので、煙草飲みにいい感情はない。キスが臭いし。とはいっても、自分に累の及ばない煙草はけっこう好きだったりする。てかぶっちゃけ、映画ね。映画の中で煙草を吸っている場面は好きだし、この前も「コヒー&シガレッツ」なんて題名そのものの映画があった。ブラックホーク・ダウンで捕虜となったアメリカ兵にアイディード派の男が煙草を薦め、断られると「そうか、アメリカ人はもう吸わないんだったな」という場面がある。葉巻大好きな英国人であるリドリーが、アメリカの映画にわざわざ入れたお茶目な皮肉だ(あ、あと「コーヒー切らしてるんで、紅茶を」って場面もあったなあ)。

 しかし、自分の知っている人間が煙草をふかすのは、映画と違ってやや嫌悪に近いものがあると言えなくもない。とくに私の職場は伝統的に喫煙者の多い職場であり、修羅場ってるセクションの廊下にいくと、親の仇のように皆がモクモクと吹かしている。分煙されてりゃ、個人の勝手だとは思うんだが、知り合いだとちょっぴり嫌なものがある、かもしれない。

 それは禁煙ファシズムの「愛する人に押し付ける」という話ではない。「いのちをだいじに」とかそういうことではないのだ。
病院にいたとき、そこは完全禁煙だったので、入院患者は煙草を吸うことが出来ない。私の隣のベッドにいた人はこういった。「いや、これを機に禁煙しようと思いましてね」。そして続ける「けど、なんだか無性に吸いたくなるんですよね、イライラしてくるっていうか」。

 酒を飲まないとイライラする、などと日常でいう人はあまりいない。いるにはいるが、そういう人間ははっきりこうレッテルを貼られるだろう、「アル中」と。そして職場で酒を飲む人間もいない。煙草は頭をクリーンにし、酒は頭をぼんやりさせるからだろうか。もちろんそうだ。

 だけど思うに、煙草というのは、おおおっぴらにアディクト(中毒)しているところを、人に見せつけ、また公言することができる奇妙な嗜好である。禁煙している人間は例外なく(つーと多少言い過ぎかしら)「ツラい」と言い、失敗率も高い。アル中となると病院の世界だけれど(「失踪日記」は生々しかったなあ)、煙草はそうではない。せいぜい禁煙仲良しサークルがあるくらいだ。

 中毒はタバコや酒だけではない。人はいろんなものにアディクトする。バロウズ爺さんだって言ってたではないか。「麻薬は人生そのものだ」って。バロウズは麻薬中毒を特殊なものとして描いたのではない。人をアディクトさせ、コントロールのインターフェースとするすべてのものの中心として、麻薬を描いただけだ。

 思うに、煙草に対する嫌悪とは、酔っ払いを見たときに感じる嫌悪を思いっきり薄くしたものなのではないだろうか。つまり、我知らずアディクトしている人を見る嫌悪感だ。

 人はアディクトしている現場を他人に見せたりしない、フツーは。オナニーは自室でやるものだ。麻薬はこっそり打つものだ(まあ、犯罪だからというのはありますが)。しかし、煙草はこれまでアディクトしているまさにその現場をおおっぴらに見せてもいい嗜好のひとつだった。

 実際は、煙草だけが管理の対象になっているわけじゃない。アメリカでは肥満が与える経済的損失(生きていればその人間が生産するはずだった経済循環や医療費の負担)が問題になってきているし、崩壊前のソ連では、ゴルバチョフがウォッカに厳しめの規制をかけていた(そういうわけで密造酒が作られた。まるで「アンタッチャブル」だ)。ウォッカにアディクトしている人間が深刻な社会問題になっていたからだ。
煙草に中毒していない人間の割合を計ることは難しい。大体、どのレベルの習慣性から「中毒」なのか。それは単に線引きの問題でしかない(もちろん、それは「中毒」がいないということにはならない)。しかし、煙草を吸うことをやめた人間が例外なく「辛い」と言い、「禁煙」ということが何か特殊な、個人の強い意思が必要な行為として語られることがこれほどまでに多いと(そういうのを聴くたびに、ダイエットとの強い共通性を感じる)、やはり煙草のみは例外なく「中毒」であると感じてしまう。

 煙草が、自分の部屋でひとりもしくは「恥」を許容し共有する任意の相手(セックスや、オタ趣味)とで耽溺するべき嗜好だとしたら、これほどまでに(そう、禁煙ファシズム、と言われるまでに)皆が大騒ぎするような締め付けになっただろうか。たぶんならなかったんじゃないか。

 つまり、喫煙に対する嫌悪は、昨今の健康指向ゆえと言われてはいるけれど、実のところ、アディクトしている人間を見て感じる醜悪さへの嫌悪という部分もあるんじゃないだろうか。

 そこで思うのが、オタクだ。毎年、夏コミの帰り、ロリキャラの紙袋を下げた人間を見て、東京湾花火大会にいく人間たちは嫌悪をあらわにする。アニメのTシャツを来たデブオタ。いわゆる「アキバ君」の格好。あれもまた、その人間が(周囲を無視して)アディクトしていることを身体で表象していることからくる醜さなんじゃないか。自室にエロゲのポスターが貼ってあろうが誰も気にしない(人の部屋など見ないから)。しかし、オタクがそれと分かる形でパブリックなスペースに出ていくとき、状況は一変する。それは、自室から外に持ち出されたアディクトしている身体だ。オタクの服装とは、究極的には外に延長された自室である。「趣都の誕生」はアキバを「巨大な個室と化した」と語ったが、オタクの服装や持ち物はそれ自体が外延された自室であり、そのオタクの自室は生活空間という機能以上に、ある(人目をはばかるはずの)メディアに中毒するための空間という意味合いが強い。つまり、オタクの服装、体形、ノートパソコン、リュックなどの装備とは、外に持ち出された中毒空間の表象なのだ。

 もちろん、アディクトの対象はオタクと煙草に限らない。人はおよそあらゆるものに(苦痛にすら)アディクトする。酒にアディクトし、食うことにアディクトし、ダイエットにアディクトし、アニメにアディクトし、セックスにアディクトし、オナニーにアディクトし、鞭で打たれることにアディクトし、浣腸にアディクトする(笑)。しかし、それがパブリックなスペースに持ち出されることはない。そこ、「野外プレイは?」とか言わないように。

 人がアディクトしている現場を見るというのは、言い換えれば自制を失っているところを見ることだ。嫌煙運動はヒステリックだと、私も思わないでもない(最初にも言ったように、分煙されてりゃいい)んだが、そもそもこの文章の目的は嫌煙運動の正当性を問うことではない(つまり道徳の話ではない)。だけれども、「禁煙ファシズム」という言い方自体が、そのヒステリックさを指摘するはずだった反・嫌煙者たちをむしろヒステリックに見せてしまうのは、アディクトを肯定することの難しさからきているのではないかしら。煙草に限らず、「私がXXXに中毒していることを抑圧するのは自由の剥奪だ」という言い分はなかなか納得してもらえないだろう。だからといって、アディクトが完全に禁じられた世界は「1984」以外の何物でもないのだし、そんな社会を作ることは不可能だ(いや~、でも人は何にでも中毒するから、「管理される」ことにも中毒するかもな~)。

 だから、反嫌煙に必要なのは、たぶんデータとか自由とか文化とかそういう(いまのところあまり効果のない)言論武装ではなく、「中毒していること」をこの社会の中で積極的に肯定する言葉(論法、ではない。要はみんなに「中毒」してもいいじゃん、と思わせること)なのかもしれない。ぼくにはぜんぜんそれが思いつかないけれど。 

2005年10月8日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200510