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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

流通する言葉

戦争広告代理店~わるもののつくりかた

 文庫落ちしたいまごろ読みました。遅すぎ。

 実は、この題名自体、ある種の自己言及になっていることは、だれも書いてないみたい。本当にセルビア側は虐殺をやらかしたの?そもそも「被害者」ボスニア・ヘルツェゴビナ側はセルビアと同じようなことはしていなかったと言い切れるの(ハーグではとっくに結論されてますが、まあこの本の内容では)?そんな白黒曖昧な状況の中、人々が無意味に死にゆく混沌とした戦場を(フィクションとして、そしてそれを真実として)物語化してゆく作業を行う、ストーリーテラーのお話(いや、ドキュメンタリーではありますけど)。

 どこらへんが自己言及的かというと(作者も気がついていないかも知れないけれど)、この中の一章に「民族浄化」という章がある。現地でWWIIのときに使われた言葉の英語訳「エスニック・クレンジング」。このことばが選ばれた経緯というのも非常に面白い(「ホロコースト」はユダヤ人にとって特別な言葉で、それを使ったら大きなロビー/影響団体であるユダヤ人コミュニティの無意味な反発を喰らうから)んだけど、しかしやはり、この言葉の醸し出すものは物凄い影響力を発揮した。「民族」を「浄化」する。この響き。ぼくはほとんど、これを求めてSFを読んでいると言ってもいい。異質な世界で使用される、ぞっとする迫力を持った言葉。黒丸ファンだったのも、そして彼が訳していってくれた(ありがとう)ウォマックが好きなのも、「1984」が好きなのも、そういう理由による。通俗的なところで言えば「光学迷彩」や「擬体」という言葉。ぼくはあれはすごい発明だと思う。お陳腐な「透明スーツ」を「いや、これは光学的な迷彩なんです」と士郎正宗が言い、それを簡潔に短い漢字の連なりで表現したとき、このアイテムは新しいカッコよさを得たのだし、「擬体」にしたって、サイボーグ、とかすっかり定着した言葉を避けた結果、「いや、義手や義足と同じく、体全体が『義』なんだ」というアクロバットみたいな思考の結果生まれ、それは確かにすごいインパクトを持っていた(いまやすっかり定着してオタク界隈では普遍化してしまったけれど)。

「民族浄化」という単語にはそんな、言葉の快楽、があった。快楽、という表現が不謹慎ならインパクト、と言ってもいい。日常においては決して繋がることのない二つの異質な単語が合体したときに生まれる、観たことのない世界。ロートレアモンも以下略。
それは、そのインパクトゆえに、あっというまにセルビアとボスニアで起きている事象を表象する言葉になった。ある箇所で、ある村の人間を集め、武力で強制的に移動させ、家財を破壊し、強制収容所に入れたり殺したり、と形容するかわりにただ一言「民族浄化」と言えば、それで片付く、と言っている人物がいた。これなんてまさにニュースピークだ。その単語は繰り替えし繰り返しメディアで流通し人々が語ることで、その内実(辞書に書かれた「意味」の部分だ)を失い、ただインパクトを持つ記号としての「民族浄化」が流通していく。

 冷戦時代、ハドソン研究所のハーマン・カーンらが行ったものは、実はこれだった。いかに「人間的に」思考するのをやめるか(もちろんそれは、「理性的に」戦争を思考するためだ)。核戦争の時代の大量死を前提にした戦争を考えた場合、そんなおぞましいものを考えることは、道徳を持つ普通の人間にはできはしまい。そこで、カーンらは「考えられないもの(unthinkable)を考える」ために、さまざまな言葉を生み出した。熱核戦争を表現し、そこで大量に人が死んでいるという状況を表象しながらも、それを感情的に煽ることのない、「死」が脱臭された言い方を。最大「効果」域、「被害」最小化。じゃあ、核兵器の「効果」って何さ。最小化しなきゃいけない「被害」って何さ。それを意図的に「意識しつつ忘れる」ために、カーンたちはシンクタンクの報告書に、ほとんどSFといってもいい「言葉」の技芸を駆使した。こうなるとほとんどこれは文学の領域だ(の、はずなんだけど、文学があまりに怠けものなので、SFが代わりにやってやっている)「考えられないことを考える」という本を「あり得ないことも一応考えておく」という意味にとっているひとは多い。違うよ。あれは「考えるだにおぞましいことを冷静に考えるためのメソッド」という意味なんだよ。

「民族浄化」は「民族」を「浄化」する、という異様な組み合わせによって、某ゲルマン的民族抹殺(民族の純血!)を想起させながらも、ユダヤ人社会がある意味特権的な所有物とする「ホロコースト」とは異なる(異ならないのだけど、そこを曖昧にする)単語、という状態を達成した。しかし、なぜかこの単語は、おぞましさを誘発させはするのに、そこで人が死んでいるという根源的な感情を欠落させている。だからこそ、それはメディアに流通したのだ。生々しい言葉なんて、視聴者は聞きたくないからだ。おぞましさを感じさせつつ、真に感情に響く「生々しさ」は封印する。そんな絶妙の効力を、「民族浄化」は持ったのだ。

 この本に関して言えば、アメリカの(そして日本の)メディアの在り方、というやつが面白い。メディアとは(命題になっていないのは承知だけれど)「流通する言葉が流通する」世界なのだ。「郵政民営化」という事の内実をどれだけの人が把握していたか(とくに他国の失敗例の多さを考えると)、そのメリットをどれだけの人がはかりにかけたか、はもちろん考えるまでもないだろう。そもそも争点はそれだけじゃなかったはずだ。んなことより議論すべき深刻な問題はいくらでもあった。しかし、「郵政民営化」という言葉は明らかに「テレビで、新聞で、ネットで」流通しやすい言葉だったのだ。基本的にあの選挙で使われた手法は「民族浄化」をワシントンという場所で全面に押し出したルーダー&フィン社が使用したのと同じ手法だ。「声の大きいものが勝つ」ではないけれど、自民党はPR戦争において、「言葉」流通させ、同時に積極的にその意味を剥奪すること(繰り返し流通させること)で、その言葉の持つ最大効果を狙ったのだ。

 記号を記号として繰り返し人の頭に叩き込むこと、実はこれ、ゲッベルスのお家芸(そして全体主義の基本的なやりくち)であり、ハスミンは「ゴダール革命」の中で「ゴダールのやってることも実はファシズムのそれとすごく似ているんだけど」みたいなこと書いてて爆笑なんだけど、別に自民党やこの国がファッショ化しているとかそういうお陳腐な話をしたいわけではない。ただ、自民党のとった「言葉」の戦略は、ものすごくメディア向きだったということだ。

 よく、(とくにテレビ、新聞)メディアについて「政治的に」偏向しているだの「意図的に」捏造しているだの、会社ぐるみの「陰謀論」や組織的な「イデオロギー的偏向」を指摘する人がいる(「朝日はサヨ、とかいう類い)。しかし、ぼくはそういうの、ほとんどタワゴトだと思う。むしろそういう、俺等の理念に添って民意を目覚めさせてやろー、なんて傲慢な意識で報道してくれたほうがどんなに崇高か。現場ってのは、情けないことに、もっと動物的な感覚で動いているものだ。それぞれの政治的信条はあるていどバリエーションがあるし、個々人の裁量にまかせられている部分は大きい。しかし、重要なのは「編集しやすい」発言だったり、「流通しやすい」言葉だったり、「はた目にそれとわかる」表情だったりする。実はメディアのいわゆる「偏向」に政治的なものは(あまり)関係がない。それは大体において、短い秒数にいかに発言やリアクションをおさめるか、いかに長ったらしい文章をカットして、ぱっと視聴者や読者を引き付けるか。そんな「技術的な」要請の結果生じたものがほとんどだ(情けないことに)。「意図的な偏向」と非難される、発言やリアクションの「揚げ足取り」にしたって、そのその瞬間が「1秒~数秒」に満たない枠で最大値に「面白い」から抜き出されるのであって、完全に政治的な偏向がないとは言わないけれど(そりゃ、ディレクターやキャスターや編集、それぞれに政治的な偏りはあるでしょう。ぼくらと同じように)、ほとんどの場合は瞬間瞬間の「流通しやすさ」で選ばれているに過ぎないのだ。要するに現場が、よりウケを狙っている、それだけのこと(すごい単純化されてはいますが)。そして、この本で書かれているアメリカのメディアとはまさに、そういう存在だし、日本も多かれ少なかれ同じだ。

 この「戦争広告代理店」には、そうした日米共通するメディアの特性の中で、いかに「民族浄化」という言葉が広まっていったか、が掛れている。自己言及的、といったのはこのことだ。もちろん、この本の題名は内容を考えて真剣に考えられたものだろう。しかし、「戦争」と「広告代理店」の組み合わせは、言葉としてインパクトがあり(ある種の価値観すらひっくりかえすような)、それゆえ記号として流通してしまう危うさも孕んでいる。「民族浄化」と同じように。

2005年10月25日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200510