伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

いくさの王

「個性」を大切にしよう、と教育は語る。その子の、その子だけが持っている才能を伸ばすような教育こそ大切です、と。現代は個性の時代だ。あなたと、わたしが、ある点で異なっていること。その異なり方によって優劣が付くこと。

 その「個性」が人を殺す道具の、売り買いに関するものだったとしたら。ぼくはそれを手放せるだろうか。碇シンジ様曰く、「ぼくがいちばんエヴァを巧く使えるんだ!」その分野で他に並ぶもののない才能を手に入れることができたとき、他の分野でこれっぽちも冴えないこのぼくが、その一点においてとてもうまくやっていくことができるとわかったとき。それが人を殺す武器を売るという商売であっても、ぼくはそれをやめられるだろうか。

 できないだろう。ナルシシズムの強いぼくには。
「寓話」そういってしまいたい気持ちは確かにある。いま、この時代にイソップがいたとしたら、星新一が生きていたとしたら、たぶん映画作家に、アンドリュー・ニコルみたいな作家になっていたかもしれない。「ガタカ」「トゥルーマン・ショー」「シモーヌ」、そしてスピルバーグの「ターミナル」。ニコルが関わった作品は、多かれ少なかれ、いま、この社会を舞台にした「寓話」の色を帯びている(「おとぎ話」ではない、念のため)。しかし、その性向の別の面というに過ぎないのではあるけれど、かれが今まで選んできた題材に、「箱庭」感があったのもまた、事実だった。サバービア全体がテレビスタジオだったり、空港で延々と過ごすハメになった人の話だったり。それはとてもとても気持ちのいい箱庭感で、ぼくはそれがとても好きなのだけれども(ま、ディストピアスキー&建築スキーとしては当然「ガタカ」がベストですが)、箱庭が嫌いな人がいるのもまた、事実だった。彼の物語は現代に箱庭的状況を用意することによって、現実を寓話化しているとも言える。現実を、箱庭という包装紙にくるんで、観客に差し出すのだ。

 しかし、今回ニコルは武器商人という題材を選んだ。遺伝的エリート社会での挫折とその突破とか、社会と実存レベルの話ではない。生き死に、というか死、というのっぴきならない現実についての話だ。いまアフリカで死んでいる人をネタにして「寓話」なんて書いていいのだろうか。彼らはアリでもキリギリスでもない。いま、現実に、アフリカで虐殺されていっているひとびとだ。つまり、箱庭は実存は扱えても、生き死には似つかわしくないのだ。考えてみれば当然で、箱庭とはユートピアの一変種であり、擬似的な天国であるからだ。そこに悲惨な死はない。「トゥルーマン・ショー」が描いていたのは、まぎれもなくアメリカのサバービア幻想だったけれども(ちなみにあの映画の「シーヘブン」はマイアミに実在する町でロケーションされた)、そのどこまでも明るく照らし出された町並みが醸し出す無気味さというのは、死の予感をはく奪された、「闇のない世界」故の逆説的な無気味さだったはずだ。

 では、「いま、ここ」の武器商人という、寓話化が困難な題材を、ニコルは自分のフィールドに持ってくることができたのだろうか。現実を前に「箱庭化」が困難だと悟ったニコルは、ここで新趣向をあみ出した。

 それが、一人称ナレーションの採用だった。

 物語が一人称で語られるとき、それがどんなに深刻な状況であってもコメディの様相を訂するのは、太宰を読めばわかることだ。「ファイト・クラブ」なんかそのいい例だろう。韜晦や言い訳が多ければ多いほど、その物語はコメディ化していく。箱庭化、というのはつまり、現実を語るにあたって語る要素を極限することだ。ある物理的状況を数学的にモデル化するのに似ていると言ってもいい。扱うパラメータを限定し、結果を算出する。いままでは「箱庭化」によって行っていたそれを、今回ニコルは「主人公の一人称」という構成をとることによって達成した。

 そして、すべてが主人公の語りとして処理される以上、箱庭に閉じ込めるには生々しすぎた人々の生き死には、必然的にその視点人物を通した上(あるいは「のみ」)での生き死にでしかありえなくなる。その軽重は映画作家の手ではなく、それが生み出した「利己的で、韜晦的な」主人公の価値観という天秤を通してのみ語られることになるからだ。

 こうしてニコルは、世界の寓話化を可能にした。かれはそれまでの映画と同じ手つきで、武器が売られていくこの世界の現状をてきぱきと捌いていく。語られている話自体は、どうしようもなく胸糞悪いものだけれども、主人公の「職能」である韜晦っぷりがすさまじくユーモラス(「自動車事故でも人は死ぬが、自動車セールスマンが家に帰って仕事の話するか?」「私は確かに武器を売っているが、人が死なずにすめばいいと願っている」アクロバティックな言い訳連発で腹抱える。)なので、その言い訳っぷりと正当化っぷりでゲラゲラ笑いながら映画を楽しむことができるわけだ。

 どんなに人が死のうとも。

 そう、これは、世界のどこかで、いまも起こっている人の生き死に(というか死)の話なのだ。「ジェノサイドの丘」とか読むと、それがあまりに凄まじすぎるので、アフリカで起こっていることが「寓話」に思えてくることもあるけれど、けれどやっぱりそれは現実で、主人公ユーリがその現実に対してとり続ける距離というのは、これまた胸糞悪くなることに、ぼくら自身の現実に対する距離の取り方でもある。

 紹介される数々のエピソードは、どれも現実にあった(らしい)ものでありながらも、どこか小咄めいてみえる(輸送機解体のエピソードとか最高。「溺れた巨人」なんか5秒で映像化できるね)。余談だけれども、ギリアムの「未来世紀ブラジル」で当初予定されていたオープニング案に、アマゾンで樹が伐採されるところからはじまって、それが運ばれて加工されて、パルプになり、紙になり、書類になり、20世紀のどこかの国のオフィスに行き、というのがあったらしい(「バトル・オブ・ブラジル」による)。この映画のオープニングを見てその話をなんとなく思い出した。「事実は小説よりも奇なり」というけれど、ユーリ自身、自分の生きている現実の奇妙さを自覚しながら、それを語っているようだ。現実をさめた眼で見つめる、と言えば聞こえはいい。ぼくたちがそれを使うとき、それはどこかしら「現実に対する冷静な視点」という評価を含んでいるものだ。曰く、「説教じみた『反戦』ではない作品」「戦争はなくならない、と認めたうえで」とかなんとか。けれど、いままで「寓話」をとりつづけてきたニコルが今回ぼくらにつきつけるのは、その「現実的」な視線そのものがとても残酷なんだ、ってことだ。その視線そのものは大いに結構。反戦運動を冷ややかに眺め、サヨ、とか罵るのも結構。

 けれど、その連中のどれだけが、自分自身の「残酷さ」を引き受けているんだろうか。

 反戦運動やサヨクの話はたとえ話として持ち出しただけだ。それは自分がどの陣営にいても変わらない。ただ、世界を見つめる、その視線そのものが残酷なんだ、ということを「現実を見ろ」と叫ぶどれだけの人が理解しているのだろうか。ぼくがとてもやりきれなかったのは、ユーリという人物から見た世界、というよりユーリという人物の世界の見方、がぼく自身の世界に対する見方のそれに近かったことだ。あんなに世をうまく渡ることは出来ないけれども、その残酷さはたぶん、ぼくの残酷さだ。

 ユーモラスであることが残酷であること、それがあなた自身の残酷さであるかも知れないこと。

 これは「武器商人の世界」を描いた映画(というだけ)ではない。そういう現実を知るなら書籍の類いはいっぱい出ているし、この映画をきっかけに、そういう本を読む人が増えればいいな、とも思う。けれど、この映画は同時に、「自分と関係ない(と思い込んでいる)」世界を「現実的に」眺めることの、つまりぼくらの冷酷さをつきつける映画でもある。この映画の主人公の言い訳を笑うとき、それは確実に自分自身を笑ってもいるのだ。

 ラストを陰謀史観じみてしまってがっかり、という人はたぶん、むかしむかし、イラン・コントラ事件というものがあったのを知らないのだろうなあ。世界がトンデモ陰謀で覆いつくされているわけでもないけれど、現実的な陰謀というやつは適量あるのだよ(それに、そのほうが楽しい、と不謹慎だが思いませんか)。 

2006年1月2日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200601