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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

『ファイト・クラブ』(1999)

 ひとりひとりの、かけがえのない命と皆はいう。でも、ぼくらは唯一無二の美しい雪のかけらなんかじゃない。かといってごみくずでもない。ぼくらはぼくらだ。でも今や都市が世界を覆い、個々の存在は無に等しい。個人主義が進行するほどに、どういうわけかぼくらは個人の無力をより一層痛感する。

 ぼくらは財布の中身じゃない。ぼくらは仕事じゃない。ぼくらはスウェーデン製の家具なんかじゃない。でも今、ぼくらはまさにそのすべてでもある。物に囲まれて都市に生きるぼくらは、ほんとうの痛みをいつのまにか忘れている。神経性の痛みばかり抱え込んで、傷つけ、傷つけられることによってぼくと君とを分かつ、その痛みを忘れている。痛みも他者も、いまやすべてが頭のなかにある。
 そんな時代を笑い飛ばしつつ、ラストにささやかなラブ・ソングを歌う、20世紀最強最後の凶悪な詩。20-30代の立ち位置を確認する、「年齢の高い」若者のための映画「ファイト・クラブ」。
 私のオールタイム・ベスト10の一本です。


 主演(というか主人公じゃないんで助演なんだけど)はお馴染みブラッド・ピット。危険なカリスマ、タイラー・ダーデンを演じます。タイラーによってアナーキズムの世界に足を踏み入れることになる、語り手の「ぼく」にはハリウッド若手1の知性派俳優、エドワード・ノートン。成長したのび太のような気の弱い男をやらせたら天下一品。二人と三角関係になるマーラ・シンガーには「ハワーズ・エンド」などイギリス映画で有名な女優ヘレナ・ボナム・カーター。ケネス・ブラナーの元彼女です(笑)。
 監督は「セブン」「ゲーム」などで有名なデイヴィッド・フィンチャー。観客の神経を逆撫でする演出ばかりが騒がれていますが、色使いといい、アングルの選択といい、私はこの人現在のハリウッドで一番映像の上手い人だと思います。個人的には、小島監督並に溺愛している監督です。音楽はデジタル・ロックの雄、ダスト・ブラザーズ。

 

 タイラーはぼくに銃を突きつけ、その指はいま引き金に掛かっている。
 タイラーとぼくは旧知の間柄だ。タイラーが何をしたのか、ぼくはすべて記憶している。だからぼくが話そう、ぼくらとぼくらの住まう世界の話を。

 はじめから話すと、ぼくは煮詰まっていた。
 ぼくは親父の言う通り大学を出て就職した。ぼくが決めなくても、どう人生を進めばいいか、世界があらかた決めてくれてしまっている。だからぼくはサラリーマンで、仕事は自動車会社のリコール調査コーディネートだ。「市場に流通している車体数」×「推定される欠陥発生率」に「裁判一件当りの平均和解額」をかけた金額を計算する単純な仕事。その金額が欠陥車をリコールしなかった場合のコストを下回れば、欠陥車は放っておかれ、誰かが死ぬかもしれないが、会社は傷つかずに済む。だから、ぼくは会社が目をつむった多くの事例を知っていて、終身雇用というわけだ。
 ぼくはカタログを見ながら、どんなデザインの家具を買えば幸せになれるか考える。ぼくは部長の顔を見ながら、悪夢のように退屈な仕事をこなす。だからぼくの部屋はIKEAの家具でいっぱいで、デスクワークは死ぬまで続く。
 ぼくは煮詰まった。ぼくは完成しすぎていた。ぼくは完璧で完全な人生から脱出したかった。
 だからぼくは不眠症になった。

 ぼくは全然眠れなかった。医者は役に立たなかったが、精巣ガンに比べれば不眠症など苦痛のうちに入らないと言った。だからぼくは精巣ガン患者の互助グループの集会に潜り込んだ。大文字の「死」を前に、すべての希望を失った患者たちが集うこの集会の、痛みを告白し涙を流しあう抱擁タイムで、精巣ガンで「ない」ぼくは、自分がまだ生きてることを実感し、安らぎを得る。こうしてぼくは久々の睡眠を得た。ぼくは住脳寄生虫患者やら、気質性脳障害者やら、不治の病に罹った患者たちの定期集会をハシゴした。患者を偽って潜り込んだ集会で、そのつどぼくは泣き、泣き、涙を流し、家にかえって眠ることができる。
 だけれども、マーラがそれを台無しにした。マーラはぼくと同じく、いかなる種類の不治の病も患っていない。マーラはぼくと同じく、住脳寄生虫患者や気質性脳障害者や、あまつさえ(女であるにも関わらず!)精巣ガン患者集会にも鉄面皮で出席し、どん底に慰めを見い出している。掛け値ねなしに本物だったこの場所に、ぼく以外の偽りが忍び込んだ。マーラが見ている前ではぼくは泣けない。ぼくは再び眠れなくなった。
 そんなとき、ぼくはタイラー・ダーデンと出会った。

 出張から帰る飛行機の中で、タイラーは隣の席に座っていた。石鹸を製造販売している、とタイラーはぼくに言って名刺をくれた。アパートに帰ると、ぼくの部屋はガス爆発かなにかで跡形もなく吹っ飛んでいた。だからぼくは荷物をまとめ、タイラーに電話した。
 タイラーとぼくはバーで落ち合い、酒を飲んだ。タイラーはぼくに、自分のところに泊めてくれるよう頼め、としきりに言い、ぼくがそうすると今度は泊める代わりに条件がある、と言った。
「思いっきり俺を殴ってくれ」
 ぼくが戸惑いながらもタイラーを殴ると、タイラーはぼくの腹に強烈なパンチを返してきた。ぼくは痛みに呻いたが、不思議と清々しい気分だった。それからぼくはタイラーと毎晩バーの駐車場で殴り合い、野次馬の数が次第に増えていった。次に野次馬の何人かが殴り合いに参加し始め、そしてある日タイラーはファイト・クラブの創設を宣言した。
 ファイト・クラブで殴り合う男たちは、昼間出会っても全くの知らん顔だ。ファイト・クラブについて口にしてはならない、それがファイト・クラブ規則その1だからだ。だけどクラブで殴り合ったあと、男たちは解放され、日常の様々な不満は気にならなくなっている。勝ち負けは問題じゃない。ぼくはファイト・クラブでのファイトを終えた晩はぐっすり眠ることができる。力と痛みとが、ぼくが生きていることを実感させてくれる。

 けれど、マーラがそれを台無しにした。マーラはタイラーと出会い、タイラーとマーラはセックスした。ぼくはマーラに唯一無二の親友を、ぼくを完璧で完全な人生から解放してくれる英雄を奪われようとしていた。タイラーとマーラとぼくはちょっと変った三角関係だ。タイラーはファイト・クラブで喧嘩し、マーラとセックスする傍ら、臨時雇いの映写技師をしながら子供映画にポルノ映画のいきり立つペニスのひとコマを紛れ込ませたり、ウェイターの仕事をしながらディナーパーティーの料理に自分の小便を垂らしたり、おぞましい材料から石鹸を作ったりしていた。タイラーは資本主義に対するアナーキストだ。タイラーは自己破壊こそ答えだとうそぶき、ぼくをアナーキズムの世界に誘い込んだ。
 ファイト・クラブはアメリカ全土に増殖し、その会員の何割かはタイラーをイデオローグと信奉する徹底破壊プロジェクト「プロジェクト・メイヘム(騒乱計画)」の構成員になった。プロジェクト・メイヘムは消費社会の淀みに攻撃を仕掛けるイタズラ大作戦だ。プロジェクト・メイヘムもまたアメリカ全土に増殖し、タイラーは若者たちのカリスマとなった。芸術も戦争もすべてが成され、放射性廃棄物やら、環境保護やら、いままでの消費社会のツケを払わされるハメになった、資本主義のどんづまりであるぼくらの世代の英雄に。
 暴走するタイラーの計画を止めねばならない。こつぜんとぼくの前から姿を消したタイラーを追って、ぼくは行動を開始する。タイラー・ダーデンとは一体何者なのか……ぼくとタイラーが始めたファイト・クラブがこんなことになるなんて。いまやファイト・クラブはテロリストの集団だった。タイラー・ダーデンの私設軍隊だ。

 しかし、タイラーの正体は、ぼくの想像よりもはるかに奇怪で、はるかにおぞましいものだった。

 

 この「ランニングピクチャーズ」は、いわゆる「批評」の類ではなく、映画の概要と見どころを(ネタバレしない程度に)紹介して、皆さんに映画館に脚を運んでもらおうというコーナーです。どんな映画にも見どころはあり、その辺も含めて大雑把に紹介することで、その作品に関心を持ってもらおうというのがこのコーナーの主旨でした。
 無論私は「客観」なる言葉をあまり信じてはいないのですが、できるだけ紹介する作品はメジャー大作に限定し、「一般の人の映画の見方」を想像して、その規準に照らしてお勧めできないものははっきりそう言い、そこから外れた部分で「それでも私はこういう部分は楽しめましたよ」と横道にそれた映画の楽しみ方にも触れてきました。

 ですが……この、「ファイト・クラブ」に関しては「好きな部分」「面白くない部分」という評価は出来ないのです。全肯定か、全否定のどちらかしかありません。
 この映画はテンポも早いし、ブラックな笑いも随所にちりばめられ(強調しておきたいのですが、これはあくまでコメディ映画です)、台詞も分りやすく書かれています。「セブン」「ゲーム」では時間の引き延ばし(語りの遅延)に重点を置いたフィンチャーは、ここでは全く逆の映画文法を採用しているのです。単位時間当たりのカット数とシーン数が映画史上最も多いのではないかと思わせるほど、この映画の物語は「速い」のです。
「描写」を徹底的に省略して事件だけを語る映画、と言えば薄っぺらい映画を想像する人もいるかも知れませんが、この映画はその「描写」の省略の仕方が尋常じゃない。遅延の技法はほとんど採用されておらず、物語は凄い速度で展開していきます。はっきり言ってこれ以上「速い」映画を作るのは不可能でしょう。私はこの映画を「史上最速の映画」と呼びたい。フィンチャーはまたしても凄いことをやってのけたのです。
 だから、展開の速いこの映画が(アクションしか見ないよー、などという人は抜きにすれば)「面白い」のは間違いありません。しかし、この映画が好きか嫌いか、となると話は別。そのことはその人間の生き方に大きく関わってくるのです。

 この映画の裏では深い絶望が進行してゆくのですが、にもかかわらずその語り口は一向に深刻ぶることもなく、あくまで軽やかで笑いに彩られています。ダスト・ブラザーズが奏でるテクノ・ミュージックのミニマルな意図的な単調さも妙に可笑しい。そのとき観た劇場の観客の「センス」にもよりますが、笑える人には大笑いのギャグが全編に仕掛けられています。その笑いは独特のものですが、この映画に共感できる人間には思いっきり笑え、笑えて、やがて結末に至り胸を締め付けられるような切なさに襲われるはずです。
 タイラー・ダーデンはトリックスターであり、不在の中心でもあります。彼が社会に対して仕掛けるテロは「壮大なイタズラ」とでも呼ぶべきもので、その内容は(あらすじのところにもちょっと書いてありますが)凶暴というよりは凶悪、大爆笑ものの幼児性に満ちています。そうしたイタズラの数々を見ているだけでも飽きません。笑いと速度、その点も前述のアニメ作品とは異なる点でしょう。この映画の物語は猛烈なスピードで流れていきます。「同時代とリンク」し、(音楽で言えばほとんどワーグナーなみの)大袈裟なポーズで深刻ぶっているアニメやゲームに比べて、この作品の脚力のなんと軽やかなことでしょう。
 アニメはまだ語り得ると思いたい私にとって、それらの作品とその恥知らずな類似物が流行するアニメは、言わば未練の残る別れた恋人みたいな存在でした。アニメは好きだが、あのような語りがスタイルとして消費されている現状では、テレビやビデオを見てもむしろ失望を味わうだけだ……しかし今、私の未練は消えました。私には「ファイト・クラブ」があるのです。

 このコーナー始まって以来の最高の作品であり、私のオールタイム・ベストに入る映画でありながら、しかし決して万人に薦められる映画ではない「ファイト・クラブ」。  まだこれを書いた時点では初見ですが、これから幾度となく飽かず見つづけることによって、私はそのたびに新しい発見をするでしょう。

 今、ぼくがこの社会に生きているという逃げようのない事実を扱う映画。肉体を持つ一顧の人間として「今ここ」に生きることの意味を問う映画。その意味では「エヴァ以降」ともいえる最近のアニメーションの流行に近いかも知れません(エロゲーでも流行ってるみたいですね。基本的に恥知らずな業界だから)。しかし、疎外と孤独を扱っていればアニメやゲームとして認められてしまうところが、この業界の19世紀的な幼稚さです。あの手のモノが、ぼくは大ッッ嫌いです。
 この映画は「哲学的」と言われた「シン・レッド・ライン」なんかよりもずっと哲学的と言えるかもしれません。私に関して言えば、実はこの映画の主題は(ハイデガー的ではなく)ドゥルーズ的に読んだニーチェではないか、と思考しています。
 この映画が扱う題材は、いま、ぼくらが生きるこの消費社会での肉体と自我/狂気と去勢/はては「一瞬」と「人生」などに繋がる、外界と「私」の関係性です。その意味では、この映画は塚本晋也の一連の作品、特に「東京フィスト」に直結します。都市に住まう、肉体をひっくるめた「私」の存在、それがこの映画や「東京フィスト」が扱う「私」であり、まさに「エヴァ」や「lain」に欠けていたものなのです。

 このグロテスクでポップでしかし痛切な作品の結末は、ある人によれば「テルマ&ルイーズ」だといい、ある人によれば「オズの魔法使い」だといいます。またエドワード・ノートンは「ダスティン・ホフマンの『卒業』」に例えています。
 主人公が「敵の思い通りに」壊れてしまった「セブン」。自分の決断として死を選んだものの、結局はゲームの一部にしかならなかった「ゲーム」。しかしこのファイト・クラブはラスト直前までは「セブン」「ゲーム」同様に主人公が大きな力の前に無力であるという構成は保持しながら、最期に自分で選択し、主人公が結末を導くのです。「セブン」「ゲーム」で投げ掛けられた問いに対する、フィンチャー自身の「こたえ」が、この作品に至って初めてちらりと見えたような気がします。
 原作とは異なったその結末は、あなたが確認してください。余りに唐突で、あまりに悲しく、それでいて励まされずにはいられない結末。一つ言えるならこのラストは、ポップミュージックにやたら恋人たちの「愛」ばかりが歌われ、その「愛」がえらく長もちしそうな安っぽいものに変わり果ててしまったこの現代に於いて、唯一可能なラブ・ソングなのです。あまりに切なくて、けれど感慨にひたって涙を流すにはあまりにも短すぎる、一瞬の告白、一瞬の帰還。
 最期に、主人公は語ります。
「これからは、すべてが良くなるよ」
 この台詞はあまりに切なすぎ、切実すぎ、悲痛すぎます。だけど、その帰還が自分の決断ならば、その一瞬に帰ってこれたことこそ、喜ぶべきことなのだと、この映画は語るのです。

 

そのために懸命に努力しなければならないとしても、完璧な1分間にはその価値がある
――タイラー・ダーデン

 

 ちなみに、この映画のラストシーン、映画がスタッフロールに行く直前の一瞬、フィンチャーの物凄い「悪意」が仕掛けてあります。わずか2フレーム(1/12秒)程度の映像なので何が映っているか分らない人もいるかも知れませんが、映画の内容を考えればその映像が何かは明白。よく税関を通ったものです、この映画。税関や映倫委員に対する面当てであるうえ、我々観客に対する「あっかんべえ」でもあるこの一瞬は、映画史に刻み込まれるべきイタズラです。 

引用元:「Spooktale」内「Cinematrix」第33回