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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

同人誌としての「パッション」

いわゆるSS

 といってもナチの突撃隊ではなく、ショートストーリー。ゲームやアニメのファンの方々が書く、二次創作の同人小説ってやつですな。好きなアニメやゲームのキャラを使ったオリジナルストーリーや、本編の全後日談。

 で、メルギブの「パッション」を観てきたんだけど、実は上映中激しくある既視感に悩まされていたのでした。

 それは最近観た「イノセンス」「アップルシード」

 なんでやねん。全然違う映画やろが。そう、そのはずなんだけど、なんでだかデジャブが繰り返しおそってくる。こういう映画の見方、最近多かったなあ。でも「こういう」見方ってどういうことなんだろう。

 そこでハタ、と気がついたのが、

 そうか、これ「聖書」っていう「原作付き」なんだっけ。

 押井2作目の法則に従って原作無視路線に突入するかと思われた「イノセンス」。しかし、内実はある意味原作と正反対の内容を確かに持ちつつも、しかしお話自体は原作1巻「ROBOT RONDO」にかなり忠実で、しかも2巻や1.5巻の台詞までがコラージュされ、原作を読んでいる私は「ああそう、この台詞原作のあそこにあったあった」という原作の台詞や要素のパッチワークを楽しんでいた。

「アップルシード」も同様で、まず観たとき、話自体が原作の1&2巻をベースにしつつ、「人間を魂の道具に云々」とかいう台詞(を曲解して使っていたり(苦笑))や、三巻以降に出てくるはずのダミュソスで空飛ぶギュゲスD、コミックガイアでの連載がストップしもう発表の機会はないだろう5巻登場のムンマのワイヤー使いサイボーグなど、原作全体のさまざまな部分を繋いだ、パッチワーク感とでもいうべきものがあった。

 で、この「パッション」に感じたのも、その「原作のパッチワーク感」だったのだ。

 聖書。でもその記述は実は驚くほど一貫していない。特に使徒たちは「お前ら本当に同じ事件を描写してるんかいな」ってほど、キリストについての描写はばらばらで、ほとんど羅生門状態。

 イエスの最後の言葉で有名なのは、御存じ

 

イエス大聲に叫びて『エリ(エロイ)、エリ(エロイ)、レマ、サバクタリ』と言ひ給ふ。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意なり。


というやつだけど、これは実はマタイ伝とマルコ伝のみの描写だったりする。マルコではさらにこのあと大声を一発出してイエス絶命。ルカでは

 

『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言ひて息耐えたまふ。


がイエス臨終の言葉だ。ヨハネでは一言、「事畢(おわ)りぬ」。

 ばらっばら。パッション、ではどうなっているのだろう。なんと、まず「なんで見捨てたんだよ~神様あああ」が来て、その後で「神様、御手に云々」が最後の言葉となる。「すべて終わった」のヨハネ伝はスルー、かというとそんなことはなく、ヨハネ伝の「終わった」の前には「われ渇く」とイエスが喉の渇きを訴えて葡萄酒を与えられるところがあるのだけど、これは「パッション」にきっちりと入っている(マルコでも葡萄酒の描写はあるけれど、周りにいた兵士だか野次馬だかが自発的にあげる。イエスは「のど渇いた」とか言ったりしない)。各使徒の記述のいいとこどり、コラージュなのだ。

 なんつーか、パッチワーク感、「原作のここから持ってきました感」がものすごいのだ。

 さらに、この映画には聖書には登場しない萌えキャラ(笑)が登場する。それはだれかとゆーと、意外や意外、あのキリスト教レアアイテムのひとつであるスダリウムの聖ヴェロニカたんだ。

 映画を見たらなんだか女の子になっててえらく笑ったのだけど(単に「女」と書かれているのしか読んだことなかったからなあ)、この、イエスの血に染まった顔を布で拭き拭きして、その布にイエスの顔が浮き出た、という染め物みたいな話は聖書のどこにも書いていない。映画では萌えキャラであるヴェロニカたんも、聖書にはひとっことも出てこない。

 余談だけど、この、キリストの顔を拭いたらキリストの顔が浮き出てじゃじゃんじゃーん、な布は、三枚が教会によって認められている。というのも、教会によれば「三つ折りにして拭いたから」だそうな。これがキリスト教の論理性だとしたら凄い話ですな。

 けれど、この「パッション」にはちゃんとヴェロニカが出てくる。聖書にはひとっことも触れられていないはずのヴェロニカが。しかも御丁寧に、拭いた後の布が一瞬映り、そこには、う、うわー、人の顔があるよ! ちょっとこれはさすがに爆笑。やりすぎだメルギブ。フォレストガンプのスマイルマークシャツ誕生のくだりを思い出してしまったアルよ。

 さらには、ルカによると

 

人々イエスを曳きゆく時、シモン(シメオン)といふクレネ人の田舎より来るを執へ、十字架を負はせてイエスの後に従はしむ。


 ということなんだけど、この映画ではシメオンとイエスは一緒に十字架を背負っている。上のを読めば、十字架を担いだシメオンはイエスの「後ろに」ついてきたんだから、イエスはそもそも十字架を背負っていないことになる。マタイでも

 

シモンといふクレネ人にあひしかば、強いて之にイエスの十字架をおはしむ。


とある。マルコも同様。でも、そのまま映画にするとなると、この映画が根底から崩壊する。この映画はイエスが十字架を背負う、ただそれだけの話と言ってもいいからだ。都合がいいことに、ヨハネだけは

 

イエス己に十字架を負ひて、ゴルゴダといふ處に出でゆき給ふ。


と一行書いてある。民主主義で言ったらヨハネの描写は却下だけど、やっぱりみんなはこのイメージを期待している。メルギブがどうしたかは当然のごとく、かっこいいほう。ちなみに、ヨハネにはシメオンの記述すらない。

 なんつーか、この映画が史実に忠実じゃない、ってのはいろんなところでも言われている(ちなみに、当時の罪人は横木だけ担いだ、という考証は、ものすごい方法で屁理屈をつけている。有名な泥棒ふたり(イエスと一緒に十字架にかかった彼ら)は時代考証にそって横木だけなのだ。でも、運悪く、というか理由不明、でキリストだけが十字架をまるごと背負うはめになる、という案配)。
 たとえば有名な話だけど、最後の晩餐、みんな横に長いテーブルにほとんど家族ゲームアングルでずららっと並んで席に着いている構図を思い浮かべるかもしれない。ところが、あれは後世の画家たち(というより、ほとんどヴィンチ村のレオナルドのインパクトだね)が思い込みで作ってしまった構図だ。

 当時はテーブルと椅子で食事をする習慣はなかった。みんな横になってゴロゴロとしながら飯を食っていたのだ。その辺はバーナード・ルドフスキー「さあ横になって食べよう―忘れられた生活様式」にくわしい。そうでなければどう考えても不可能な描写が聖書の中にはいくつかあるのだ。つまり、聖書に忠実に描写しようとするなら、みんな横になってゴロゴロと食べていた、というふうにしなければならないのだ。

 けれど、この映画の最後の晩餐では、みな椅子に座って襟を正している。

 しかも、この映画には聖書には登場しない、あとで「キリスト教萌えの誰かさん」が勝手に創造したのかもしれない(傍迷惑な話だ)、オリジナルキャラまでくっついてきている。

 そこから浮かび上がるのは、「聖書に忠実」ではない、二次創作としての、ファンの尾ひれがついた世界観を受け継ぐものとしての「パッション」という映画だ。つまり、この「パッション」はその根本において「同人誌」ということになる。

 また余談。槍でイエスを突き、その死亡を確認した兵士については聖書にも描写はある。えれど、それが白内障のカシウスさんというひとで、イエスの血を浴びたので目が見えるようになったとか、その槍がロンギヌスの槍と呼ばれるようになったとかは一言も書いていない(エヴァファン残念)。ヨハネ伝の中だけに、単に兵士が槍で脇腹を突いたら血と水がドバーと出てきた、と書いてあるだけだ。

 とはいえ、同人誌も立派な表現媒体であるのと同じように、そのことはこの映画の価値をなんら貶める(もしくは高める)ものではない。ただ、さまざまな人間が抱いてきたイメージの集積、原典を編集し、原典にはないがファンの間では有名なキャラ、まで加えた、奇妙な創造物としての「パッション」という存在が興味深かっただけ。

2004年5月5日 伊藤計劃
引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200405