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伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

ビルの谷間の暗闇に

すぱいどめん2

 スパイダーマンほど夜が似合わないヒーローはいない。

 よくわからないけど、このシリーズを見て共通して思うのは、夜のスパイダーマンというのが、あんまり美しかったりカッコよかったりしない、ということなのだ。赤と青、というのが夜景には汚い色に見えるせいだろう。スパイダーマンのデザインに影が致命的に似合わないのだ。かれは明るい日中にマンハッタンを飛び回り、あるいは夜であっても煌々と明かりに点された場所に立つのが美しい。これはバットマンその他のアメコミヒーローとは際立って異なる特徴だと思う。いや、事態は逆なのかもしれない。想像するに、ウルヴァリンが、Xメンがそのままのデザインで映画化されていたら、それは「闇の似合わないデザイン」になっただろう。しかし、「黄色いタイツでも着たいのか?」と劇中でジョークにされてしまったように、Xメンはコスチュームデザインをがらりと変えた。闇の似合う、影を許容するデザインに。

「バットマン:ダークナイト・リターンズ」以降、アメコミは闇の逃れがたい魅力にとりつかれていった。レーガンが「強いアメリカ」を打ち出す中、弱者は切り捨てられ、貧富の差は拡大した。レイキャビク会談は決裂し、世界は核戦争の予感をとりもどしつつあった。そんな時代の産物として、「ウォッチメン」や「ダークナイト」などのコミックスはセンセーショナルに登場した。彼らは、ヒーローの「ヒーロー」たる定義を自らの手で書かねば(あるいは放棄せねば)ならなかった。自警団としてのヒーロー、狂人としてのヒーロー、政治の道具としてのヒーロー。

 そんな80年代は過ぎ去り、レーガンはブッシュになり、クリントンになり、ソ連は崩壊したが、「闇」にとりつかれたアメコミはそこから容易に抜け出すことはできなかった。それは80年代の切実さをもはや備えてはいなかったかもしれない。しかし、闇はヒーローを捉えて放さなかった。

 Xメンがミュータントであることに、ゲイのブライアン・シンガーが(あるいはマッケランも)テーマを見い出したように、バットマンが両親を殺されたトラウマを背負い続けたフリークスであることに、ティム・バートンが喜びを見い出したように、彼らは聖なる疵を負った聖者だった。彼らは社会から隔離され、その刻印を背負いつつ生きねばならぬ「特別な者」たちだった。ヒーローは「聖別された者」であり、その疎外は映画的に「使える」。バートンの「バットマン」が開いたその闇は、アメコミヒーロー映画のお決まりのフォーマットになった。

 スパイダーマンは「親愛なる隣人」と呼ばれる。
 この映画は、身近な感情に寄り添うのが上手い(って、そもそも「眼鏡でカメラ小僧でいじめられっこという三重苦を背負った童貞の夢」というものすごいコンセプトだしな。マトリックスを遥かに上回る卑近さに、世界中のモテない青年include俺が感情移入しまくるのは当然ではある)。メイおばさんがお小遣いをくれる場面で、ぼくはもうぼろぼろ(ノスタルジーとともに)泣いてしまった。畜生、上手いなあ。実家の立て具合や、銀行で融資を断られるあたりなど、所得具合が見える挿話も絶妙すぎる。ここにあるのは「闇」ではなく、卑近すぎる「生活」だ。

 この映画においては、ピーターをスパイダーマンの道(笑)へ進ませた伯父さんの死ですら「トラウマ」という言葉の罠にはまったりしない。それは動機であり、むしろピーターを強くする契機でありつづける。バットマンが両親の死を「呪い」として抱え続け、バットマンたることを「狂気の同類」とするのとはまったく違う。

 前作もそうだったけど、今作も話がすげえ小さい(笑)。いちおー漫画映画なので核融合とか人工知能搭載のマニピュレータとか神経とインターフェースするナノマシンとかそーいうスーパーテクノロジーが出てくるのだけど、どうにもスケールが大きい感じがしない。バットマンだって街ひとつの話だし、敵は単なるキチガイひとりなのだけれども、スパイダーマンよりはスケールがでかい気がする。それはやっぱり、「フリークスのフリークスによるフリークスのための」壮大な世界が広がっているように思えたからで、スパイディーにはそのような魅力的な狂気は存在しない。スパイダーマンのスケールが小さく思えるのは、そのどこまでもぼくらの生活から演繹できる身近さ、卑近さを、相反するようなヒーローの世界で展開しているからだ(スパイダーマンは敵を殺さない)。

 スパイダーマンの凄さ、というのはそこだ。闇をまとわないヒーロー。どこまでも日常として在る、在ろうとするヒーロー。葛藤はあれども、真にどうしようもない「存在そのものの闇」は纏わない(纏えない)ヒーロー。80年代からはじまった、ダークヒーローの系譜をスパイダーマンは背負っていない。定型化した闇を、スパイダーマンは背負ってはいない。かといって「スーパーマン」のようにからっと突き抜けてもいない。「スパイダーマン」は青年で、卑近な存在でありつづける。

 サム・ライミはすごいと思う。「ダークマン」を撮った彼は、「死霊のはらわた」を撮った彼は、しかし頑として「闇」に目を向けることを拒否する。彼は異常な状況から、しかし異界を排除する。闇にもはや意味はない、とでもいうように、ビル・ポープの撮影は日中のマンハッタンを映す。かれは生きるという作業に目を据えつづける。異界を排除しつづける。画面から闇を排除し、日中のアクションを胸をはって展開する。クライマックスは夜ではあるけれど、そこには堂々と太陽が輝いている。その輝きは煌々とピーター・パーカーを、スパイダーマンを照らし出す。苦痛は闇ではない。生きることは闇ではない。闇のような異界、聖痕としての差別やトラウマを背負った世界から、この映画は語らない。凡庸な世界の喜びから、あるいは喜びの不在から、この映画ははじまる。そこが、この映画を他のアメコミヒーロー映画とはまったく異なる作品にしている理由だと思う。

 たぶん傑作だと思う。たぶん真摯な作品だと思う。こう言うと多くの反論がありそうだけど、あえて言ってしまうと、サム・ライミは「CASSHERN」と同じくらい、あるいはそれ以上に真摯で青臭いのだ。しかし彼には技術があり、年齢から来る余裕もある。それだけのことだ。これはある意味、どこまでも教育的で真剣な映画なんだ。 

2004年7月4日 伊藤計劃
引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200407