伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

『マトリックス』(1999)

「見慣れた」荒唐無稽さを「見たこともない」イメージで描く。「見慣れた」内容を「見慣れない」映像で見せる。そこには久しぶりに「アイデア勝負の技術」をいうものが見えて、私はそのことに純粋に感動しました。
 もちろん!やってることも凄いぞー!「そうそう!こういう『臆面もない』映像が見たかったんだよ!」という皆さん(俺の事だ)!これです!これが「臆面もない」映像の極みです!小島監督狂喜乱舞のB級オタク精神!全開の映像が恥ずかし気もなく全開しっぱなしの映画、それが「マトリックス」です。

 

 主演はキアヌ・リーブス、ということで「JM」の悪夢再び、と恐れているあなた(笑)、今回は全然大丈夫です。ヒロインのトリニティーには、モデル出身のキャリー・アン・モス。この女優さんは初見でしたが、はっきり言って好みです。主人公を導くカリスマ、モーフィアスにはローレンス・フィッシュバーン。主人公たちを執拗に追跡する最強の男、エージェント・スミスには「プリシラ」でオカマのひとりをやっていたヒューゴー・ウィービング。
 監督は、「バウンド」というなかなか好感の持てるインディペンデントなサスペンス映画(俺様激ラブのジーナ・ガーションお姉様主演だ!)で監督デビューしたウォシャウスキー兄弟。

 

「奴らに盗聴されている」
 電話からその言葉を受け取った直後、彼女の部屋に警官隊が突入した。ラバースーツに身をかためたひとりの女性。警官たちは彼女を包囲して、動くなと警告した・・・。
 しかし、彼女は動いた。彼女が動き、そして部屋から出たとき、突入した警官たちはひとり残らず床に倒れ伏していた。
「勝手に突入するなと言ったろう」
 警官隊の隊長にそう言うと、新たに現場にやってきたダークスーツの男たちは、人間とは思えぬ運動能力で彼女を追跡しはじめた。呆気にとられる警官たちを尻目に、謎の女性と黒服のエージェントたちは、ビルの間を驚異的な跳躍力で跳び回りながら、追跡戦を繰り広げる。そのとき街角の電話ボックスに、突然ベルが鳴り響いた。電話ボックスに駆け込み、彼女が受話器を手にした瞬間、エージェントの運転するダンプカーがボックスを圧し潰した。
 しかし、滅茶苦茶に潰れたその残骸の中に、彼女の死体は無かった。
「逃げられたか」
「構わん。奴らの狙うものはわかっている。検索を開始しろ」

 トーマス・アンダーソンには、二つの顔があった。昼は大手ソフト会社のプログラマーだが、夜は凄腕のハッカー「ネオ」として様々なデータベースへの侵入をくり返していた。
 そんなネオの悩みは、この世界に対して感じる奇妙な違和感だった。起きながらにして夢の中にいるような非現実感。現実のような悪夢をみることもしばしばある。この世界はどこか変だ、なにかが間違っている・・・。
 そんな感覚も、しかし、誰もが一度はこの世界に抱く不安感の表れのひとつに過ぎないのかもしれない。しかし、ネオの許にある日、奇妙なメッセージが届く。それはこの世ならざる「もう一つの現実」へのインビテーション・カードだった・・・。

「起きろ、ネオ。マトリックスがお前を見ている」

「白ウサギの後について行け」
 そのメッセージに従い、謎の女性の案内で、モーフィアスという男と対面したネオ。「真実を知りたいのならば、これを飲め」と言われて差し出された赤いカプセル。「君が知ることになる真実は恐ろしいものだ。知りたくなければ、こっちの青いカプセルを選べ。これを飲めば、何も無かったことになり、もと通りの生活に戻れる」しかし、ネオは真実を知る道を選びとった。赤いカプセルを飲み込んだネオに、モーフィアスは語る。
「今飲んだのは、君の本当の肉体の位置を探すプログラムだ」
 そして意識を失ったネオが再び目覚めたとき、そこに広がっていたのは、誰も想像しえないであろう悪夢のような風景だった・・・。

 

 アメリカでは「日本のアニメを実写にしたような」という評が頻繁に見られたこの映画。その点において、この映画はまったく臆面もなくやっています(笑)。それはもう、爽快なほどで、「アニメで見慣れたああいうディテールも、本気で実写にするとこんなにカッコイイんだ!」という場面が連続してギッチギチに詰まっているだけの映画であるといっても過言では無いでしょう。
 スローモーションでフルオートの薬莢がバラバラ落ちるカットを「事あるごとに」挿入していたり、柱がずらりと並んだホールで壮絶な銃撃戦が行われ、警官隊の猛烈な射撃によって主人公の隠れている石柱がどんどん削れていったり(この場面、ほとんどアニメ「攻殻」ラストの、廃墟博物館におけるアクションシーンのパクリになってます)、りんたろう監督がよくやる、ビルとビルの間を驚異的なジャンプで飛び越える(ほら、「カムイ」とか「X」とかでやってたでしょ)場面が出てきて、あまつさえ着地の瞬間ちゃんと着地した床のタイルが割れたり(笑)、それはもう壮大な引用っぷりです。しかもそのすべてがカッコイイ。カッコ良すぎる。
 他にも、カンフーを拾得したキアヌーがブルース・リーの挙動をそっくり真似たり、銃弾をよける「エージェント」の上半身や、超高速で繰り出されるパンチが、北斗百烈拳のごとく(ってか、まんまなんだけど)アフターイメージをひく残像となって見えたり、アジアの様々なキッチュ映像文化の引用が質量ともに盛大に行われています。
 量はともかくこの「質」というヤツが重要で、日本アニメや香港映画のテイストを引用したハリウッド映画はこれまでにも幾つかありましたが、贅沢な資金とぶっとんだアイデアの特殊効果を動員して、ここまで本気で「引用」したのははじめてでしょう。
 確かに、アニメでは見たことのある風景です。しかし、それを本気で実写にしようという作り手の本気が作用したとき、それはまさに「誰も見たことの無い映像」になったのです。ここで「こんなのアニメで見た事ある」などというのは感性の鈍化にすぎません。「実写」に「アニメ」の演出を持ち込むことが、人間の挙動や風景に対する我々の「認識」を一変させ、異化する装置として機能しているからです。これは「所詮は絵であり、実写に比べ抽象度の高い(押井守)」アニメーションには不可能な映像の力です。

 基本は脳天気おバカ娯楽大作ですが、そこかしこに見られる逞しいB級精神や、聖書やギリシャの神々などの神話、「アリス」「白雪姫」など外部テクストの引用、そして派手になりそうなところをぐっとこらえて、地味な渋い照明の映像でシメたところなども好感が持てるところ。お話は「現実と思っていた世界の崩壊」ものではありますが、すんごく分りやすく単純化してあるので、混乱することは絶対にありません(この程度の話で混乱しているレビューが幾つか出回っているのには苦笑せざるを得ませんが)。
 ただし、この話はいわゆる「サイバーパンク」などではまったくありません。なぜなら、この映画にはコンピュータを操って何事かを達成するというような、テクノロジーに対す感心がまったくないからです。
 映画を見ていただければわかりますが、「電脳空間」というのは「夢の世界」を映画として実現するための「方便」に過ぎません。コンピュータに関するスリリングな描写は、一切登場しないことからもそれは明らかです。
「人類全てが同じ一つの夢の中に住んでいるのだとしたら?」という、誰もが考えたことのある夢想を説明するために「電脳空間」という方便が必要だっただけで、基本は(「ダークシティ」というよりも)「うる星やつら2・ビューティフルドリーマー」なのです。
 作者たちがこの物語から徹底してリアリティや現実味を排除しようとしていることは、画面を見れば一目瞭然です。まず、この映画の中で何度も登場し重要な役割を担う「電話」。何故かこの映画に登場する電話は(携帯以外)すべて、今はほとんど存在しないであろうダイヤル式の黒電話!劇中に登場するテレビはブラウン管の縁が弧を描くほど大きく膨らんだ、あの昔懐かしいテレビ。ハイテクを画面から排除しよう、排除しようという作り手のコンセプトがプンプン匂ってきます。
 まさか今どき、「人工知能が王となって、人類を支配した」などという物語にリアリティを感じる人はいないでしょう(それでもこの映画の物語にリアリティを感じている人がいるのには驚きますが)。そんなことは、おそらく作り手はまったく問題にしていないのです。「人工知能」という名前はトランプの国の王に付けられたもう一つの名前、「電脳空間」も「夢の世界」を用意するための方便。おとぎ話の悪役を用意するための一つの方便に過ぎないのですから。
 これは「夢」に関する映画のひとつ、悪夢と現実を扱ったおとぎ話であって、サイバーパンクなどでは「決して」ないのです。それを無視してこの映画にわずかでも「リアリティ」や「現実感」を感じ取ってしまうことは、上質なファンタジーへの侮辱にほかなりません(もっとも「この世界は夢かもしれない」という意味での「リアリティ」はたっぷりあります)。入念に組み立てられた照明や小道具、キャラクターのネーミングなどがこの映画のおとぎ話としての寓話性をはっきり示しています。おそらく、そのことを一番感じるのはキアヌの「目覚め」の場面、コンピュータによる「人間牧場」の壮大なビジュアルによってでしょう。

 CG全盛の映画界。もはやどんな映像が出てきたって驚きはしません。いまさら巨大でリアルな宇宙船を見て驚くひとがいるとは思えませんし、フルCGIのキャラクターが出てきてどれだけ細やかな動きをしようと、そこにあるのは「ほぉー」という『感心』であって、イメージ自体に対する『驚き』ではないはずです(そのことを身に染みてわからせてくれたのは、ほかならぬ『エピソード1』でした)。
 CGIがごくごく見慣れた風景の一部と化したとき、バブルははじけました。CGであることが「アニメである」ことや「実写である」ことと同程度の、なんら特別でない単なる手法の問題でしかないことが、やっと(そう、やっと)一般のオーディエンスにも理解されはじめた今、「イメージを生み出す」技術の状況は古典的なところに落ち着いたように思えます。
 すなわち、アイデア勝負。
 技術でなく、いかに新しい映像を提出できるか。
 そういう意味では、この映画の「弾よけ」などに使われた「フローモーション」技術は、単純な原理ではあるが誰も考え付かなかったコロンブスの卵的発想と、精度の高いCGI技術が結合した、真にクリエイティブな「頭で勝負」のSFXだと言えるでしょう。

 フルCGという大胆さで「当時は」センセーションを巻き起こした「ファイナルファンタジー・ザ・ムービー」は、公開していないこの時点で、じつは既に過去のものとなっているのです。できたところで、それは所詮「限りなく精緻な」人形劇に過ぎません。ノイズや空気感といったものを含む、実写フィルムの持つ情報量のボリュームには到底かないませんし、アニメーションの潔い抽象度の高さからみても中途半端。内容はごくごく普通のSFのようですし、逆に「フルCG」だからこそ、どんな映像を見せられても「CGだからあたりまえ(実際はそうではないのだが、少なくとも感想として)」、そこにあるのは「細かいねぇ」「実写みたい」といった「感心」でありこそすれ、「なにか見慣れない、変な映像を見た」という『驚き』にはなりえないのです。
 「CGならどんなセットも作ることができる」というなら、『エピソード1』が実写のレベルでフルCGIセットを実現しています。潤沢な資金によるライブ・セットであれ、CGIによる仮想セットであれ、ハリウッドは我々がおよそ考え付くあらゆる情景を「実写として」フィルムにする技術的なインフラを有しており、現実にそのような「実写」映画を商品として提供してくれています。「フルCGI映画」なるものが、た単にそれらの代替品として生産されるのなら、「本物」がいやというほど毎年劇場でかかっている以上、そんなものを好きこのんでみる人は、CGバブルの後遺症から抜け切れていないひとぐらいでしょう。
 つまり、私に言わせてもらえば、フルCGIの世界はこれから、単に技術的に「細かい映像になる」達成しかありえず、なにか新しいものを生み出すクリエイティブな発展はまったく望めない、というのが現実であると考えます。
 では、クリエイティブなCGIが発展する可能性はどこにあるのか。
 ひとつは、「バグス・ライフ」「トイ・ストーリー」に典型的な、実写から遠ざかる抽象度の高い(むしろ方向性としてはアニメに近い)表現。もうひとつは、これまでのSFXのような「実写の一部として機能する」CGIということになります。CG表現としては近年まれに見るセンスの良さを見せつけた「バグス・ライフ」を製作したピクサー社の社長が「(実写の代用としてのフルCGに)おぞましさを覚える」というコメントをしているのも、優れたクリエイターとしての至極まっとうな反応だといえます。なにせ、そこ開かれた可能性は遠からず袋小路に陥るのですから。
 この「マトリックス」は、後者において『驚き』を達成した、近年まれな例であり、ある意味では今後の道標となるマスターピースになっているといえるでしょう。

 本筋とは関係ありませんが、実はこの映画で私が一番感動したのは、腕を大きく振り迷いなく突き進む「エージェント」たちの、豪快な走りっぷりでした(笑)。「リーサル・ウェポン」のメル・ギブソンの走りや、CGよりもある意味燃えた「ターミネーター2」のT-1000の健脚の美しさ、映画自体はどうしようもないのに主人公の「走る」動画は本当に素晴らしかった「スプリガン」、等々にえらく感動した私にとって、この映画のエージェントたちの迷いのない走りっぷりは何ものにも代え難い感動をもたらしました。そのような場面を映画の中で見るたびに、「走る」という行為は本当に映画的な行為なのだな、と思います。
 この秋一番の「走り」映画としても、私はこの「マトリックス」を推したいと思います。 

引用元:「Spooktale」内「Cinematrix」第28回