伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

トゥルーマン・ショー(1998)

 ランニングピクチャーズ第15回は「シティ・オブ・エンジェル」大ヒット御礼・公開延長の被害にあって、公開順延の憂き目をみている「静かなる傑作」こと「トゥルーマン・ショー」。これの公開されている劇場で、次に控えているのが大量の女性観客層を望めるブラッド・ピット「ジョー・ブラックをよろしく」とあって、公開も早く終了しそうな気配……シクシク。しかし、この「トゥルーマン」、地味地味ですが、本当に良い映画です。できれば皆さん観に行って、公開劇場である松竹系列に一泡吹かせてやりましょう。


 さて、傑作傑作とはいいながら、ネタバレせずに魅力を紹介するのが非常に困難なこの映画。というわけで、今回のランニングピクチャーズは徐々にネタバレレベルの高くなる3段階構えで参ります。

 主人公トゥルーマンには「顔面ゴム男」ことジム・キャリー。はっきりいって今までのキャリーはNGというアナタ、今回のキャリーはオッケーです。いつもの「クドい」演技もそこそこに抑え、かつキャリーでなければ絶対に出せなかった笑いと切なさ、そして爽やかさがここにあるのです。
 テレビ番組「トゥルーマン・ショー」のプロデューサー・クリストフには、伊藤計劃が最も敬愛する俳優、エド・ハリス。「ライト・スタッフ」のグレン宇宙飛行士(この前70歳過ぎで宇宙行った人ね)役や、「アポロ13」のクランツ飛行主任、「ザ・ロック」の哀しきテロリストリーダー・ハメル准将など、「アツい男」「プロフェッショナル」を演じさせたらこの人の右に出る者はいません。
 監督はピーター・ウィアー。「いまを生きる」「グリーン・カード」などの感動作を撮るかと思えば、「刑事ジョン・ブック」「モスキート・コースト」「ピクニック・アット・ハンギングロック」など、シュールな味わいの傑作を撮ったりもする才人です。脚本・制作をつとめるのは、伊藤計劃の本年度私的ベスト映画「ガタカ」の監督・脚本をこなした、これから要チェックのシネアスト(映画人)、アンドリュー・ニコル。

 

第一段階(どんな映画なの?)

 どこまでもどこまでも青い空……白ペンキで塗られたピカピカの住宅地……そして街を取り囲む澄んだ青い海……ここは絵に描いたように平和な離れ小島の町・シーヘヴン。
「おはよう!それと、もしもまた会えなかった時のために、『こんにちは』と『こんばんは』もね!」  隣人にそう挨拶して出勤してゆく彼の名前はトゥルーマン・バーバンク。愛想のカタマリのような、根っからの善人である彼は、ここシーヘヴンの町で保険会社のセールスマンをやっている。
 幼い頃に海で父を亡くし、重度の水恐怖症であるトゥルーマンは、この、海に囲まれたシーヘヴンの町から一歩も出た事がない。けれども、彼には心から愛してくれる妻のメリルがいて、兄弟同然の親友マーロンがいる。彼の生活は本当に満ち足りたものだった。そう、雲一つない真っ青な空から照明ランプが落ちてきた、その日までは……。
 故障した飛行機から、そのランプは落ちてきたものだと、ラジオは言った。トゥルーマンは目の前に落ちてきたランプの事は忘れ、いつものように出勤する。と、出勤途中の町の広場で、トゥルーマンは信じられないものを見つけてしまう。それは、幼い頃に死んだはずの父親の姿!しかし、その父親らしき老人はトゥルーマンの目の前で何者かにあっという間に連れ去られてしまう。
 父親に思いを馳せるトゥルーマン。家に帰って思い出の品を納めた宝の箱を覗くと、そこには初恋の人のセーターが……夜の浜辺で彼女と交わした、たった一度のキス。しかし、私はフィジーにいる、という言葉を残して、それっきり彼女はどこかに消えてしまった。
 そんなトゥルーマンの夢は、このシーヘヴンを出て、初恋の彼女のいるだろう南国の楽園・フィジーに旅立つこと。だけど、水恐怖症のトゥルーマンは海にかかる橋を渡れず、船にも乗れない。おまけに、飛行機の予約は1ヶ月先まで全部埋まってしまっている。めげずに夢を抱きつつ、いつものように出勤するトゥルーマン。しかしその日、彼の車のカーラジオに、奇妙な電波が飛び込んでくる。自分を追跡しているような、奇妙な交信。???の念にかられたトゥルーマンが、ためしにいつもとちょっと違う行動をとってみると、町中の人々が何か落ち着かない。
 何かが自分の周りで起こっている……自分の知らない事件に、自分は巻き込まれている……しかし、事の真相は、トゥルーマンの想像をはるかに越えたものだった。

 

第二段階(それじゃ全然わからないよ!)

 わからなくって当然です。この映画はなんにも知らないタブラ・ラサ(白紙状態)で観に行くのがベストです。ここまでこの文章を読んで、この映画を観に行ってみようかな、と思ったあなた、もう読むのは止めた方が良いでしょう。
 だけど、もうちょっと知りたいという、忍耐力のないアナタ。では、この映画の魅力をもうちょっと紹介しましょう。
 まず、主人公トゥルーマン・バーバンクを演じるジム・キャリー。自由自在に動く顔面の筋肉を生かしての、「ゴム顔面芸」を数々の映画で披露して「クドい」印象を観客に与えた彼。個人的には、実は結構2枚目の顔だと思うのですが、芸の「クドさ」は確かに好き嫌いのはっきり出るものだとは思います。
 けれど、この映画のキャリーは「クドく」ありません。愛想のカタマリのようなトゥルーマン。根っからの善人のトゥルーマン。彼はいつもの「クドい」演技をグッと抑えて、それでも残った最期の「クドさ」の残滓を、平和な町ですこやかに育った善人の、ちょっと「浮いた」雰囲気に転化させています。映画を観てもらえれば判りますが、このトゥルーマン役はまさにジム・キャリーしか出来ません。彼の明るさが、映画の中でやがて「けなげさ」となり、最期には「切なさ」へと高まる、その感動がこの映画にはあります。
 そしてオモチャの様な、ピカピカの住宅地シーヘヴンの、作り物めいた幻想的な町並み。どこまでも明るく、どこまでも綺麗なシーヘヴンの町の箱庭感は、シュールなものやおとぎ話が好きな人は必見です。
 そして、優れたファンタジー全てが有している、ちょっぴり大きなスケールの問いかけ……自分と、この自分の周りの世界の関わり方……自分ってなんだろう?世界ってなんだろう?……自分にとって世界ってなんだろう?世界にとって、自分は一体どういう存在なんだろう?そうした「フシギ」を、肩肘張らずに、切なく、そして爽やかに語ってくれるのが、この不思議な不思議なファンタジー、「トゥルーマン・ショー」なのです。

 

第三段階(で、観終わってどう思った?ネタバレ入ってもイイからさ)

 えー、ハデな「泣かせ」の演出は一切ありません。泣こうと思いハデな感動を期待して劇場に行くと、思いっきり肩すかしを喰らいます。なにせ、前半部は???な映像の連続。照明が当たっていなかったり、異様にカメラを振るカットが少なかったり、画面の四隅に黒いモヤがかかっていたり……そこで描かれるトゥルーマンの日常といったら平凡そのもの、音楽も絶えず、わざとらしく鳴りっぱなし。一体これはどういうこっちゃ?なんかエラく退屈な映画やなあ……そう思うかもしれません。
 しかし、なーんと、これが監督/ピーター・ウィアーの力技。「自分の人生が、生まれた瞬間から一分残らず世界に放映されている」主人公トゥルーマンを撮影する、シーヘヴン5000台の隠しカメラ映像「のみ」で、なーんと前半部ほぼ全てのカットが(途中に挿入される、『トゥルマーンショー』を見る視聴者のカットだけ除く)構成されているのです。
 生まれてこの方、完璧に仕組まれた人生を歩み、それを全世界・17億人の視聴者に放映されつつ、本人だけがそれを知らない……万里の長城を超える超ド級ドームの中に造られた、超巨大セット「シーヘヴン」に生きるトゥルーマン……しかし町の住民は、彼の妻を含めみーんな役者。
 トゥルーマン自身は「自分の人生を生きている」と思っているが、実は、それが全部「笑いあり、涙ありのホームドラマ・トゥルーマンショー」の筋書きだった……。

 この映画には、そんな「セットの」小宇宙が破綻して、トゥルーマンが「自分自身の人生」をつかむため、そして何より、はるか「フィジー」にいる初恋の人に逢うために、この巨大セットを出てゆくまでの冒険が描かれています。

 たしかに、この映画は痛烈な風刺ではあるかもしれません。マスコミとプライバシー、プライバシーを喜々として消費するわれわれ視聴者自身……。たしかに、この映画のそこかしこには「毒」があり、「冷めた視線」が潜んでいます。
 しかし、この映画は何よりファンタジーです。アンドリュー・ニコル「ガタカ」の、主人公が宇宙ロケットに向ける「あこがれ」の視線を観た時、私はこの作家が本質的にファンタジーの資質を持っていることを直感しましたが、それはこの「トゥルーマン・ショー」でより顕著になりました。
 シーヘヴンとそこに住む役者を制御し「トゥルーマン・ショー」を演出する、演出スタッフのコントロール・ルームが、シーヘヴンの夜空に掛かる月の中にあったり、夜が一瞬で昼になったり、アメリカ人のサバービア(郊外住宅地)幻想を実体化したような、チリひとつないシーヘヴン住宅地のシュールなたたずまい……まるで大人向けの絵本を読んでいるような、シュールなおとぎ話の世界……。
 ここには、日本の「ファンタジー」が失っていた、ファンタジー本来の力が存在しています。

 もちろん、様々なSFとの類似が指摘されているように、ディック的な現実崩壊の物語でもありますし、筒井的なメディア・パロディでもあり、また、あまり指摘されることは少ないですが、ヴァーリィ又はエヴァ的な「モラトリアムの終焉」の物語でもあります。
 何から何まで仕組まれていたけれど、安全で幸せだったそれまでの人生をなげうって、ドームの外、「現実の世界」へと出てゆくトゥルーマン。ニコル/ウィアーは、その後の彼がどうなったか、観客に見せないまま映画の幕を下ろします。外には無論、厳しい現実が待っているでしょう。しかし、それは視聴者のものでも演出家のものでもない、トゥルーマン自身の人生です。
 その「トゥルーマン・ショー」最期の瞬間を、ジム・キャリーは実に感動的な「仕草」で飾ります。観客に向かって一礼する、その「仕草」。このシーンには思いっきりコメディアンとしてのキャリーが役に被って「立ちあらわれ」、奇妙な感動をもたらします。これほど爽やかなエンディングは、近年ありませんでした。

 くり返しますが、決して派手な感動のある映画ではありません。
 しかし、感動は、ジム・キャリーの身体の中に、彼の動き、微笑み、哀しい瞳の中に、確実に宿っています。それを感じ取れた者だけが、泣き、笑うことのできる映画です。

 観る/観られる、さらに映画の観客だけが、「見せる」裏方を観ることができる、という構造をダシに、メタフィクション論を展開しようかな、とも思いましたが、今回はパス。だって、あんまりファンタジーとして魅力的だったんだもの。 

引用元:「Spooktale」内「Cinematrix」第15回