伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

トニー・スコット、イーストウッド

妥協は朝飯前

 相変わらずあたまぐらぐらなのだけど、仕事があるので会社に出てきた。帰りにInvitationの10月号を買ったのだけど、表紙が「雲の向こう、約束の場所」だったので驚いた。見ればアニメ特集。目次を見れば、contributorsのところに中森明夫とかとならんで、ライターになった押井さんの娘さんの写真が。あー、似てるかも似てないかも。鼻のあたりとか。

 というのは目的ではなくて、蓮實重彦が「マイ・ボディガード」を誉めているので買ったのだ。アニメに対する記事は、なんというか、いまものすごく冷え込んでいると思う。需要はあるかもしらんが。新海さんの記事でのライターの文章に特徴的なノリが、今回の「Invitation」にかぎらず、現在のアニメに関する言説を、首を絞める真綿のような感じでやんわりと包んでいる。

 たとえば、「雲のむこう~」についての文章中に、こんなフレーズがある/「『ほしのこえ』は主人公たちの恋愛は閉ざされていながらも物語は広かった」。ぼくの感じた(この文章の)気持ち悪さと言うのは、たぶん、ここに端的に表れている。「物語は広かった」だから何だと言うのか。この書き手は世界と自分とのあいだに多くの中間ステップがあることをさらっと忘れてしまったかのようだ。二極化した「ワタシ」と「セカイ」のあいだには虚無しかなく、そこをほっそい糸が直リンしている。むしろ、その「肥大した世界」と「閉じられた恋愛」の圧倒的なサイズの差こそが語るべき場所なのではないか。

 このライターさんは「セカイ系」という括られ方を嫌がるだろうが、書いているものにはまぎれもない「セカイ系」の自意識の在り方が露骨なまでに表れている。「広い」物語など吐いて捨てるほどあるし、そもそも現実になんら根拠を持たないアニメという表現形式そのものが、「広い」世界を抑制を欠いたまま肥大させていく描写への欲望を内在しているんじゃないのか。

 だからこのフレーズには、「セカイ系」の無自覚な指向がそのまま出てしまっている。あるいは、「物語は広かったが、主人公たちの恋愛は閉じていた」ならば、なんらかの意味あるフレーズになりえたかも知れない(とはいっても、語られ尽くした紋きりだけど)。しかし、その可能性ははじめから放棄され、そんな場所から、いまもアニメについてのことばたちは流通しつづけている。「雲のむこう~」という作品そのものには興味があるけれど、それついて語られることになるだろう言葉たちがどれほど面白くなるかというと、いまから死屍累々、死臭ただよう湿っぽい風景が目に浮かぶ。

 とかいう話をすすめるとドツボにハマりそうなのでやめておこう。ハスミンの「トニー・スコットを世界的に誉めようという運動」は着実に進行中らしく、この映画もまた「高度な活劇」としてハスミンは持ち上げている。のだが、なんだか読んでいると本当に誉めているんだかいないんだかわからなくなってくるハスミンギャグが文章のそこかしこでひっそりと炸裂しているので、「トニー・スコット誉めよう運動」が映画狂人の壮大な冗談であるような気もしてくる。

「ありとあらゆる凶暴な火器を動員して、犯罪組織の抹殺を平然と目論む。」という文章などは、妙におかしくて笑ってしまった。このひとのギャグセンスはこういう「文体」で行使されることが多い。「ありとあらゆる凶暴な」火器、とか、「平然と」目論む、とか、なんか説明し難いんだけど、ユルい笑いを誘ってくれません?

 というのは単なるギャグなんだけど、文中にはさりげなく「妥協など朝飯前のトニー・スコットが」などと書いてある。ここで大笑い。「妥協など朝飯前」ときた。誉めんのかよ、それで!フツーに読んだらぜんぜん誉めてねーぞそれ!

 もちろん、誉めているのだ。妥協してもいい映画は作れる。そのいい例がスピルバーグでありイーストウッドだというのは、もう多くの人が納得するのではないか。ふたりとも猛烈な早撮りで知られているが(とくにスピはDPがカミンスキーになってから早い早い)、「ミスティック・リバー」のティム・ロビンス&ケビン・ベーコン音声解説で、ふたりがこんなことを言っていた。

 ショーン・ペンの娘の死体が発見された現場のシーン。その場面の最後のショットで、カメラはゆるやかに現場からクレーンであがってゆき、ミスティック・リバーとボストンの街を映し出す。そこで、じつは鳥の群れが一斉に飛び立つという演出がある予定だった。業者を呼んで大量の鳥を用意して(鳩だったかな)、しかし蓋を開けてみれば鳥はいっこうに飛び立ってくれなかった。

 ふつうの作家なら、鳥が飛び立つまで粘っただろう。あるいはポスプロでCGIで足すことぐらい「朝飯前」なはずだ。しかしイーストウッドはどちらもしなかった。「鳥はよかんべ」、とあっさりその演出を放棄してしまったのだ。

 どの種の妥協が映画を貧しくし、どの種の妥協が映画を豊かにするのか、ぼくにはよくわからない。「イーストウッドはもともと、そういう象徴的なビジュアル(つまりベタ)を忌避するから」とか「映像より役者の演出を優先する人だから」とかいった「あれは決して妥協ではない」根拠はいくらでもひねり出せるだろう(ちなみに、イーストウッドはCGが嫌い、という理屈は成立しない。「ファイアーフォックス」「スペース・カウボーイ」を見ればわかるように、イーストウッドと特殊効果は妙に相性がいいのだ)。しかし、ぼくはやっぱりあれはある種の清々しい「妥協」だと思う。

 最近の映画が退屈だとしたら、それは妥協によるのではなく、むしろ「妥協しない」ことが原因なのではないか、妥協しないことを許してしまう、制作体制の逆の意味でのユルさが問題なのではないか、と思ったりするのだ。
「妥協は朝飯前」という単語は、だからやっぱりトニーを誉めているんだと思うんだけど、それにしてもやっぱり笑える。  

2004年9月13日 伊藤計劃

引用:http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200409