伊藤計劃記録 はてな版

『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の劇場アニメ化を記念して、伊藤計劃氏の生前のブログから精選記事を抜粋公開します。

人という物語

 だいぶ前から考えていたことがある。人は何故子供を作るのかということだ。

 かわいいから、というのはよほど楽天的な人の答だろう。かわいい時期なんてものは一瞬だ。いまはお父さん似お母さん似などと、赤ん坊特有の誰にでも似ていると言えば似ているぼんやり曖昧な顔を、自分の自尊心が満足するよう解釈して喜んではいても、そんな愛くるしく曖昧な時期はすぐに過ぎ去って、早晩パンツを一緒に洗わないでだの金をもっと寄越せだの言い始めるに決まっているのだ。

 コストパフォーマンスの点から言えば、子供をつくり育てることは非常に高くつく営為と言わざるを得ない。勿論子を産むことはコストパフォーマンスの問題ではないし、あまつさえ産んだ子を育て、共に生きてゆくその営みは金銭や効率には換算できない。自分の子、というものに抱く感情は特別なものだ。というより、特別なものであるよう、脳が意識に向かって始終誘導をかけている。

 ただし、子を持たず、それどころか伴侶すら持たない身として冷静に、子を持つことによって得られるベネフィットとコストを天秤にかけた場合、明らかに子を持つデメリットは大きく、便益には見合わないように思える。

 つまり、子を持つ若しくは子を持ちたいという欲望は、理不尽で、それゆえ一切のコスト意識を無効にした上でしか成り立たない。実際、ある水準の経済的な余裕に達した国は少子化の方向へと向かう。「子を持つことが見合わない」ことに皆気がつきはじめているのだ。無論、経済的な事情により子を持ちたくても持てぬ人もいるだろう。そういう人に「コストと利益を考えてみれば、子供なんて持つものじゃないよ」などという説得が何の役にも立たないことは火を見るよりも明らかだ。

 それでも多くの人が子を持とうとする。

 人はなぜ子供を持とうとするのだろう。勿論、人は死ぬからだ。人は死ぬから、死んで消えてしまうから自分自身を残そうとする。しかし、自分自身を残すとはどういうことだろう。子の肉体に宿る遺伝子は目に見えはしない。そこにあるのは育てた者の記憶。共に過ごした時間の記憶、そしてさまざまな性向や仕草、癖だ。

 それは物語だと言っていい。

 人は自らの物語を残すため、子を育てる。

 というより、人間は物語としてしか子に自らを遺すことはできない。何故なら、人間は物語でできているからだ。

 人間は物語でできているとは、どういうことだろうか。

 ベンジャミン・リベットの実験というものがある。人が指を動かそうとするときに、脳や肉体に発生する電位を測定したものだ。人間が指を「動かそう」と決意した瞬間。そして実際に指を動かすために、脳のある部位が動かす「準備」に入る瞬間。

 常識的に考えれば、我々は「動かそう」と思ってから指が動くのだから、まず決意した瞬間があり、その後に脳は指を動かす準備に入るはずだ。それは動かしがたい事実であるように思える。しかし、実験の結果はその逆を示していた。リベットが行った実験によると、まず脳に指を動かそうとする準備段階が発生し、そののちに「指を動かそう」とする決意が生じるのだ。

 我々が指を動かそうとする「自由な」意志が先なのではない。それは肉体が、脳が「指を動かす」という行動を起こそうとした後についてくる錯覚、「自分がそれを行おうとしている」と思わされているにすぎないのだ。驚くべき事に、脳が「指を動かす」準備に入ってから、「指を動かす」という意志が生じるまでに、〇・三五秒もの差が生じていた。

 この実験が示すもの。それは脳が「我々の意志よりも先に」身体を動かすことを決定し、その後に「わたしはこれから指を動かす」と「思った」ように「思わされている」ということだ。このような状況で人間の意志がどのような役割を果たしているのかには諸説ある。しかし、コンピュータが情報処理に様々な計算を行う時間を必要としているのを考えれば、目玉や耳といった精密器官が受け取った膨大な外界の情報を脳が一瞬で処理していると考えるほうが不自然だ。

 情報処理に時間がかかることを考えれば、耳から入ってくる情報と、目から入ってくる情報と、皮膚から入ってくる情報。それらがすべて同じタイミングで揃うと考えることにも無理がある。人間の脳は五感の情報を編集して、きちんと時間軸にそって揃えることで、いまこの「一瞬」を事後的に生み出している。人間が考える「いま現在」はあくまで幻に過ぎない。現実という膨大な情報の塊から脳が切り出し、整形し、編集して出力した「物語」に過ぎないのだ。わたしたちの脳には「現実」そのものは与えられない。「いま、この一瞬」と思っているものはあくまで脳が生み出したフィクションなのだ。

 そもそも、意識とは「わたし」ということばで思い浮かべるようなひとつの塊ではない。そこには「進化」という言葉が「前向きに改善されていく」というイメージを誤って与えているのに似た誤解がある。

 たとえば、糖尿病を考えてみよう。糖尿病は今でこそ命に関わる「病」であり、対処すべき何かであると思われているが、糖尿病は立場を変えれば「病気」ではない、という見方も存在しうる。なぜなら、糖尿病とは「進化」の過程で人類が生き延びるために、いや、種を保存するために獲得した「機能」でもあるからだ。

 砂糖を溶かした水を考えてみよう。その氷点、水が氷になる点は砂糖という不純物が混ざっている場合ゼロ以下になる。これは寒冷期にぶち当たった人類にとって大きな恩恵をもたらす機能のはずだ。血液中、細胞中の水分に糖が含まれていれば、人間の肉体は寒さにより耐えることができる。たとえその糖が血管や腎臓をぼろぼろにしても、それが致命的なレベルに達するまでには何十年かかかる。その間に子を成してある程度まで面倒をみることは充分可能だ。つまり、糖尿病とは氷河期などの寒冷期を人類という種がやりすごすための重要な機能でもあったわけだ。寒さに怯えることのない現在、かつては人類という種を繋いだ機能であるそれが、生命を脅かす厄介者になってしまったというだけのことだ。

 現在の人類には糖尿病など必要ないだろう。しかし、それは人類がある環境で生き延びようとして「進化」した結果獲得された特質でもあるのだ。進化の結果、我々の身体には糖尿病になる可能性が宿っている。他にも「病気」と思われている様々な病気が、そうした重宝する「機能」であったのだ。

 地球の環境は様々に変化する。その時々の変化に「対応」すべく、人類は遺伝子に新たな機能を組みこんだ。その場その場に応じて突然変異で獲得してきた機能であり病気でもある特質。そう、我々の身体は「その場しのぎ」の塊なのだ。あるときは寒く、あるときは暑かっただろう。降り注ぐ紫外線に対応するためにアフリカの人々の肌は黒い。逆に寒い地域の人々の肌は少ない陽光を体内にめいっぱい吸収すべく白い。インド人のある家族がイギリスに引っ越し、そこで子供の歯がなかなか生えてこない事に気がついた。黒い肌が陽光を吸収してしまって体内に届かず、合成に陽光を必要とするある物質が合成されなかったためだ。我々の身体はそうした環境に適応するための様々な機能のパッチワークなのだ。それは、わたしたちがひとつの全体だと思い込んでいる魂も同様だ。

 喜ぶこと、怒ること、悲しむこと、愉しむこと。

 我々が感じる感情はすべて、「生存に必要だったから」人類の脳内に「その場しのぎ」で備わった機能に過ぎない。そして、光を感じること、物質の輪郭を判別すること、色というクオリアを感じること、音を聴くこと、音の中から人の声だけを分離して聞き分けること、そういった、我々が当たり前に思っている機能のすべては、太古の様々な環境の元で別々に生まれた機能だ。人間は必要に応じて「現実」の様々な有様をばらばらに、少しずつ感じるように進化してきた。

 だから、我々が感じる「現実」とは、ばらばらなそれぞれの機能が捉えたものを、あたかも「現実」というひとつの世界であるように編集したものに過ぎない。しかもリアルな時間からは何分の一秒か遅れてから出力された像だ。

「自分が何かしようと意識してから、その何かをする」

 前述の実験からは、もしかしたらそれは幻想なのかもしれない、という結論が生じうる。意識とはあくまで「後付」の感覚であって、しかも脳はそれが「後付」であることを意識できない。しかも、我々の「意識」が受け取っている「現在」は何分の一秒かの処理時間を経てやっとこさ統合された幻ときている。では、「意識が決意している」ことが幻想なのだとしたら、意識の役割とはいったい何なのだろうか。

「意識受動仮説」というものがある。音を聞く、何かを見る、意識の前の段階が判断をする、そして筋肉を動かして何かをする。人間の意識の前にそうしたすべてが行われ、判断と行動が起こったあとで「わたしがそれをやることを決意した」と思い込むのが「意識」である、という仮説だ。この仮説に依れば、肉体や脳の神経ネットワークで起こったすべての現象の一番最後に、あくまで受け身として機能するのが意識である、ということになる。それが「受動」の意味だ。最後の最後になって、意識は「自分が決意し、行動した」と脳によって思い込まされる。

 では、いったい何のために「意識」は必要なのだろうか。

 それは物語を紡ぐためだ。

 といきなり言われても何のことかわからないだろう。より正確に言うなら、意識は「出来事」を「記憶」としてとりまとめるために存在する。脳のネットワークが「つぎはぎの」現実から生成した現実、そして意識下が決断し行動した諸々、そうしたものをひと続きの出来事、言い換えるなら「物語」へと編纂するために、記述するために存在するのだ。無意識が行ったことを「ああいうことがあった」「こういうことがあった」と系統だった一連の出来事として「認識」し「記憶」して脳の図書館に仕舞いこむために存在するのだ。

 そう、こう言ってもいいだろう。

 魂が存在するのは、物語を紡ぐためだと。

 人間の脳は、現実を物語として語り直すために存在するのだと。

 人は誰でも一冊の本が書ける、という謂がある。

 それは、人は誰もがひとつのフィクションであるからだ。

 われわれの意識は、魂は、現実をひとつの物語として記憶するために存在している。そして、いったん物語として記憶された現実は、当人の生のみならず、他者の生へも波及し、影響を及ぼしてゆく。母の作る朝食の味すらもひとつの物語であり、舌はその物語を受けとめて個人の一部となる。

 脳という「フィクションを製造し、編集する器官」から魂と呼ばれる「状態」が生まれる以上、人はそれ自身がフィクションであることから逃れられない。しかしまた、現実から多くの情報をそぎ落とし、編集された「フィクション」という在り方であるからこそ可能となるものもある。それが自身の人生を様々な形で他者へ伝えるということだ。これは「フィクション」という編集され、記述されたコンパクトな存在だからこそできることだ。

 現実は物語ではない。しかし、人間は現実を物語として処理する機能を脳に与えられた。

 人は死ぬ。しかし死は敗北ではない。

 かつてヘミングウェイはそう言った。ヘミングウェイにとっての勝ち負けが何だったのか、寡聞にしてわたしはそれを知らないが、その言葉が意味するところは理解できる。人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして、様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。

 人が伝えるのは遺伝子だけではない。人が子を作るのは、自らの物語を語り聞かせる身近な他者を求めるからだ。人は聞き手を、もっとも熱心で忠実な聞き手を求めて子を作る。「聞く」というのは勿論比喩であって、その人が子に語る方法は様々だろう。「生き様」というのはフィクションの同義語であり、親が子に見せる生き様の数だけフィクションは生まれる。

 そしてわたしは作家として、いまここに記しているようにわたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。

 これがわたし。

 これがわたしというフィクション。

 わたしはあなたの身体に宿りたい。

 あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。 

初出:〈WALK第57号〉2008年12月1日発行
「特集 物語の手触り──なぜ物語は求められるのか?」寄稿エッセイ